享保の大飢饉(1/2)200万人を苦しめた大飢饉
享保の大飢饉
江戸時代にはたびたび凶作による飢饉が発生しました。なかでも三大飢饉として知られるのが「享保の大飢饉」「天明の大飢饉」「天保の大飢饉」です。このうち最初に起こったのが享保17年(1732年)に西日本を中心に発生した享保の大飢饉で、約200万人の人々が飢えに苦しみました。今回はそんな享保の大飢饉について、その原因や江戸幕府の対策などをわかりやすく解説していきます。
享保の大飢饉とは
享保の大飢饉は享保年間(1716年〜1736年)の後期・享保17年(1732年)に発生した大飢饉です。当時の将軍は8代将軍の徳川吉宗。吉宗の時代、幕府の財政は赤字が続いており、新井白石による「正徳の治」により貨幣流通量が減少したことでデフレの状態でした。そうした状況で吉宗は「享保の改革」として財政再建をはじめさまざまな経済・社会政策に取り組むことになります。
吉宗は「米将軍」と呼ばれるほど米にこだわった将軍として知られています。財政再建のために、吉宗は江戸日本橋(東京都中央区日本橋)に高札を立てて、届出制で新田開発を請け負うよう商人たちに呼びかけました。
加えて年貢の徴収方法を毎年の収穫高に応じた「検見法」から、一定期間の平均収穫高をもとに試算した年貢高を納める「定免法」に変更し、年貢収入の安定化をはかります。ただし、凶作時には農民の負担になる定免法はやめて、検見法を採用する「破免検見法」も適用しています。加えて享保13年(1728年)には年貢率を「四公六民」から「五公五民」に引き上げ、年貢収入の増加をねらいました。
さらに吉宗は「上米制」で大名に石高1万石につき100石の割合で米を献上させます。その代わりに参勤交代における江戸の滞在期間をこれまでの1年から半年に減らしました。こうした対策により、米の供給量は十分に増え、幕府の財政は改善しました。
ただし、米の生産増に伴う供給過剰や金銀の生産量の減少による貨幣不足によるデフレにより、米価はどんどん下落していました。一方、都市を中心に生活物資の需要が増えたことで、米以外のものの価格はそれほど変わらなかったため、相対的に物価が上昇したかのような、「米価安の諸色高」の状態にありました。
このため吉宗は米価の引き上げをはかります。享保10年(1725年)、江戸の商人たちに大坂での米市の設立を許可し、彼らに米価を統制させようとしましたが、これに反発したのが大坂の商人たち。結局吉宗は享保15年(1730年)、大坂の堂島米市場(大阪府大阪市北区)を公認し、商人たちの自由な取引を認めざるを得ませんでした。
また、吉宗は凶作対策として各藩に米を備蓄する「囲米」や、幕府が米を買い上げて備蓄する「買米」などで米価格を調整しようとしました。この政策は功を奏し、享保16年(1731年)には米価の下落が底を打ちます。これで米価は落ち着いたかに思えましたが、そんななか発生したのが享保17年(1732年)の享保の大飢饉だったのです。
享保の大飢饉が起こった原因①悪天候
享保の大飢饉が起こった原因のひとつは、享保16年(1731年)末から続いた悪天候です。西日本を中心に長雨が降り続き、享保17年(1732年)も春に多くの雨が降り、夏が近づいても気温は上がりませんでした。当時の文献によれば梅雨には激しい長雨が続き、九州や中国・四国地方で長雨による洪水が発生しています。こうした冷害で稲の育ちが悪くなったことが飢饉の一因でした。
享保の大飢饉が起こった原因②ウンカによる蝗害
享保の大飢饉の大きな原因が、稲の害虫であるウンカの大量発生でした。ウンカは体長約5mmの小さな虫ですが、ストロー上の口針を稲の茎などに刺して水分や栄養分を吸い取って枯らしてしまいます。
このウンカが梅雨前線にともなう南西からの季節風に乗って中国などから日本に運ばれてきて大量発生し、稲に大きな被害を与えたのです。まずは7月に若い稲を好むセジロウンカ(夏ウンカ)がやってきました。そして九州北部から四国、中国、近畿地方へと被害は拡大していきます。
8月下旬にはトビイロウンカ(秋ウンカ)がセジロウンカにとって代わり、しぶとい秋ウンカが大量発生して西日本に大きな被害を与えました。
農民たちは黙ってウンカにやられていたわけではありません。とはいえ、江戸時代の蝗害対策は神仏頼みの祈祷やまじないがメイン。藁で作った人形などを中心に、村人たちが松明を手に水田のあぜ道を練り歩く「虫送り」が各地で開催されていました。水田の水面に鯨油を注ぎ、稲を棒で叩いてウンカを払い落とす方法もあったようですが、ウンカを全滅させるには到底間に合いませんでした。こうして稲はなすすべもなく枯れ、米不足から大飢饉が発生したのです。
享保大飢饉の被害状況
享保の大飢饉は多くの被害を及ぼしました。享保17年(1732年)から翌年にかけて作成された虫害と飢饉に関する公文書を集めた『虫付損毛留書』によれば、享保の大飢饉による全国の餓死者は1万2172人にも及びました。
また、明治27年(1894年)には小鹿島果が213種類の災害関連記録をまとめて分類・集計した『日本災異志』を発表。それによれば、被害を受けた藩は西日本諸藩のうち46藩に及んでおり、享保17年の46藩の総収穫高は、過去5年間の平均である約236万石に対し、約63万石にとどまりました。
『日本災異志』では全国の被害者数を約264万人、餓死者を約1万2000人としています。ただし、研究によれば各藩が幕府の叱責を恐れ、餓死者を少なく報告していた可能性が高く、実際の死者はもっと多かったと推察されています。
ちなみに『虫付損毛留書』の中で最も餓死者が多かった伊予松山藩(現愛媛県の大部分、餓死者は5705人)については、飢饉に対する救済策が後手に回って上手くいかず、死者が多かったことから幕府から叱責を受けました。享保17年(1732年)12月には藩主の松平定英が差控(自宅謹慎)の処分を受けています。
徳川吉宗の飢饉対策:救援米と拝借金
享保の大飢饉に対し、江戸幕府や各藩はどのような対策をとったのでしょうか。幕府は大飢饉の発生からすぐに老中の松平乗邑を中心に若年寄の本多忠統、江戸町奉行の大岡忠相などによるチームで西日本の諸藩の支援を開始します。幕府は買米や囲米、年貢米などを放出して東国の米を西日本の災害地に輸送しました。この大量の米を輸送すること、または米そのものを「廻米(回米)」と呼びます。享保の大飢饉の際は合わせて約27万5515石が廻米として輸送されました。
さらに勘定奉行の杉岡能連のもと、幕府は凶作にあった諸大名に救援資金である拝借金を支給しました。借り入れ期間は5年間。17年の年貢収入高が過去5年間の半分以下だった場合が条件で、大坂の幕府金庫から貸し与えられました。前述の伊予松山藩は平均石高が12万980石、17年の石高が「皆無」だったことから1万2000両が拝借金として支払われました。
ちなみに、当時は各藩から被害届である「損耗届」が出されており、幕府はこの届をもとに支援や参勤交代の軽減などをおこなっています。
救援米で「享保の打ちこわし」が発生
飢饉による米価格の高騰は、実は西日本だけではなく、救援米を西日本に送った東日本でも発生していました。江戸では救援米の放出により市場に出回る米が減り、米価が高騰します。そんななか、「日本橋の米問屋・高間伝兵衛が米を買い占めて価格を釣り上げている」との噂が流れ、江戸の人々が伝兵衛の店を襲撃する事件が発生します。
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。