小牧・長久手の戦い(2/2)豊臣秀吉vs徳川家康
小牧・長久手の戦い
これを受けた家康は3月15日、犬山城の南にある、濃尾平野を一望できる小牧山に築城された小牧山城に入ります。以降、小牧山城は家康の本陣となります。
一方秀吉軍の動きはといえば、3月16日、森長可が3000の兵を率いて犬山城の南にある羽黒峠に着陣し、小牧山城に攻め込む準備を進めます。
ところが家康軍はその動きをすぐに察知します。3月17日の深夜、家康軍から松平家忠や酒井忠次など5000人がひそかに出陣し、夜明けとともに周囲の林に火をかけつつ長可の陣を奇襲。パニックに陥った長可軍は敗走してしまいました。
長可敗走の知らせを受けた秀吉は3月21日に3万の兵を率いて大坂城を出発し、3月27日に犬山城に到着します。いよいよ戦いが始まるのか?と思いきや、家康・秀吉両陣営とも、砦や土塁を作って自軍を強化していたことから、小競り合いはあるものの、なかなか本格的な戦を始めることができません。完全に膠着状態に陥ってしまいます。
小牧・長久手の戦い③別動隊による三河攻めを企む秀吉軍
そんななか、秀吉軍に動きがあります。池田恒興がこっそり別動隊を出して、家康の本拠地である三河の岡崎城を攻めようという策を提案したのです。三河に火が付けば家康は慌てて小牧山城を捨てるかもしれない、そんな狙いがあったのでしょう。秀吉は、一度は策を保留したものの結局は受け入れました。秀吉が出発した大坂には、家康方の根来衆が攻めてきており、そうした動きを見た焦りがあったのかもしれません。
こうして4月6日夜半、秀吉の甥にあたる豊臣秀次を総大将に、池田恒興、森長可、堀秀政らが率いる4軍・合わせて約2万の兵が三河に向けて出発します。4月9日には恒興軍が徳川方の丹羽氏重の守る岩崎城を落としました。
家康のピンチ!と思いきや、実はこの作戦、4月7日には家康側に察知されていました。家康は忍びや近隣の農民からしっかり情報を得ていたのです。こういう用意周到さが家康らしいところですね。
家康はすぐに丹波氏次、水野忠重、榊原康政たちを小幡城に南下させて様子をうかがわせます。自分はと言えば、信雄とともに約9300の兵を率いて4月8日に小幡城に入ります。その後軍議を開き、2手に分かれて秀吉軍を各個撃破することを決定。9日未明に出陣します。
9日早朝に両軍は衝突します。まずは水野忠重、榊原康政たちが白山林で休息中の豊臣秀次軍を襲撃し、秀次軍が敗走。それを受けた堀秀政は秀次軍と合流し、檜ヶ根で忠重・康政隊を返り討ちにします。家康軍は敗走し、300名あまりが亡くなりました。
一方、家康軍の本体は小幡城から大きく東側に迂回し、長久手に到着して色金山に本陣を構えました。そのとき堀秀政による別動隊の情報を得た家康は、秀政軍と池田恒興・森長可軍を分断するために軍を動かします。恒興・長可軍は岩崎城で一休みしていましたが、家康軍が攻めてきたとの知らせにより、長久手に移動中だったのです。家康の動きを見た秀政は恒興・長可軍の援軍要請を無視して軍を引きました。
小牧・長久手の戦い④長久手での直接対決
そして午前10時ころ、長久手の戦いが始まります。家康軍9300対池田恒興・森長可軍9000人と兵力はほぼ互角なため、当初は混戦状態になりました。しかし、森長可が家康軍の鉄砲隊に狙撃されて討ち死にしたことで戦況は家康の有利に。恒興はなんとか戦況を立て直そうと努力しますが、討ち死にしてしまいます。
こうして長久手の戦いは開始からおよそ約2時間、家康の勝利で幕を閉じました。ちなみに、このとき井伊直政が武田軍の「赤備え」を引き継いだ「井伊の赤備え」で突撃を繰り返し奮戦。「井伊の赤鬼」として一躍有名になっています。
さて、そのころ秀吉は何をしていたのか。実は、長久手の戦いと同じ4月9日に陽動の意味を込めて小牧山城を攻めていました。そこで自軍が長久手の戦いで敗れたことを聞き、急いで2万の軍を率いて長久手に援軍に向かいました。ところが、本多忠勝が家康の動きを妨害します。そうこうしているうちに家康は小幡城で体制を整え、翌日には小牧山城にさっさと帰還しました。家康の素早い退却に秀吉は追撃を諦めました。一歩遅かったわけですね。
その後も両軍は小競り合いを繰り返します。秀吉包囲網に参加した武将たちも各地で戦いを繰り広げており、たとえば6月には秀吉方の滝川一益が九鬼嘉隆らとともに、家康方の蟹江城などを落城させています。蟹江城は家康にとっての重要拠点。即座に家康は取り返しにかかり、半月で一益を城から追い出しました。
またもや織田信雄……!秀吉と単独で和議
だらだらと小競り合いが続くなか、11月にはなんと織田信雄が単独で秀吉と和議を結びます。原因は伊勢での戦い。実は、伊勢では信雄が殺害した家老3名の一族が信雄に造反していました。加えて豊臣秀長や蒲生氏郷など秀吉軍が伊勢に侵攻。9月には現在の津市にあった戸木城の家康軍と蒲生氏郷率いる秀吉軍が戦い、秀吉軍が勝利しました。
その後、秀吉は信雄に和議を受け入れるよう説得を重ねます。出した条件は、伊賀と伊勢半国を秀吉に割譲すること。自らに迫る秀吉を恐れたのか、信雄はこの条件を受託し、和議を受け入れます。ちなみに、伊賀は脇坂安治、伊勢は蒲生氏郷などが得ることになりました。
なぜ秀吉は有利に進んでいた伊勢攻めを和睦で終わらせたのでしょうか。秀吉包囲網の雑賀衆や根来衆、長宗我部元親などを早々に打倒し、天下統一への道筋をつけたいという考えがあったからではないでしょうか。長々と続く戦いにけりをつけたいという思いだったのかもしれません。
この突然の和議に驚いたのは家康。戦の大義名分が勝手にいなくなってしまったのですから、唖然としたのではないでしょうか。とはいえ、どうしようもない家康は11月17日には三河に戻りました。
その後、家康も秀吉と和睦を結びます。家康としては、自領で地震や大雨などの自然災害が続いたこと、加えて長期にわたる小牧・長久手の戦いへの出兵により田畑が荒廃し飢饉が発生したことなどから、早く和睦をしたい、という気持ちがあったようです。このため家康は秀吉に同意し、和睦の使者に対する返礼として、次男を秀吉の養子に差し出しています。
なお、家康は小牧・長久手の戦い後しばらくは秀吉に臣従しませんでした。最終的には天正14年(1586年)に秀吉が妹の朝日姫を家康に嫁がせて義兄弟となり、改めて臣従を要望。こうした秀吉の粘りづよい働きかけにより、家康は同年10月27日、大坂城で秀吉に謁見し、臣従を表明しました。
どっちが勝ったの?小牧・長久手の戦い
なんだかもやっとした終わり方になってしまった気がする小牧・長久手の戦い。結局は秀吉と家康、どっちが勝ったのでしょう?長久手の戦いでは家康が勝利し、その後の戦いでも伊勢などを除けば家康が有利でした。しかし、秀吉はさすが「ひとたらし」というべきか、戦の大義名分だった織田信雄を説得して単独講和に成功しています。
小牧・長久手の戦い単独で見れば家康が、全体で見れば秀吉の勝利、といったところでしょうか。秀吉は家康を下した後に天下を統一しており、家康は秀吉が死ぬまで家臣として仕え続けることになりました。秀吉の死後については皆さんご存じの通り、家康が江戸幕府を開いて天下を統一しますが、家康にとって小牧・長久手の戦いは自らの傷として残ったに違いありません。
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- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。