生類憐れみの令(1/2)見直されつつある天下の「悪法」

生類憐れみの令

生類憐れみの令

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事件簿
事件名
生類憐れみの令(1687年〜1709年)
場所
東京都
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江戸城

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江戸幕府の第5代将軍・徳川綱吉の時代に出されたのが、かの有名な「生類憐れみの令」です。生類、つまり生き物を大切にするために出された数々の法令の総称ですが、人より犬を重視し、民衆を苦しめた「悪法」のイメージが強い方も多いのではないでしょうか。しかし、実際は捨て子の保護など、その対象は人間にも及んでおり、近年では社会福祉・倫理的な視点などから再評価されつつあります。今回はそんな生類憐れみの令について分かりやすく解説していきます。

生類憐れみの令の背景:儒学に傾倒した「徳川綱吉」が将軍就任

生類憐れみの令を出したのは江戸幕府5代将軍の徳川綱吉です。4代将軍・徳川家綱までは長子相続が続いていましたが、家綱が跡継ぎのないまま延宝8年(1680年)に病没してしまいます。

跡継ぎは家綱の弟で上野国館林藩(現在の群馬県南東部)25万石の藩主・徳川綱吉か、と思いきや、家綱の大老・酒井忠清が皇室から有栖川宮幸仁親王を将軍に据えようと画策。跡継ぎ争いが勃発しますが、「水戸黄門」で知られる徳川光圀などの反対で却下され、綱吉が将軍に就任しました。

綱吉は就任後酒井忠清を罷免し、代わって将軍就任の後押しをしてくれた堀田正俊を大老に選びました。また、江戸幕府として初めて「側用人」(将軍と老中の取り次ぎ役)を置き、館林藩時代からの側近・牧野成貞を起用。傍流からの出戻り将軍だった綱吉にとって、老中達に配慮しつつも自らの意思を伝えて幕政に参加するために、側用人は必須の役職でした。堀田正俊が暗殺されたのちは後任を置かず、側用人を活用して政治への参加をさらに強めていくことになります。

また、綱吉は学問好きでも知られていましたが、特に重視したのが中国伝来の「儒学(儒教)」でした。儒学は3代将軍の徳川家光が、弟として分をわきまえて家綱をサポートするようにとの思いで、綱吉に学ぶよう指示したもの。これに綱吉はドはまりし、後に孔子を祀る湯島聖堂(東京都文京区)まで建立しています。

綱吉は将軍として、儒学の教えに基づいた徳を重んずる「仁政」をかかげ、「文治政治」を進めていきます。天和3年(1683年)に大名の規範を示す武家諸法度を発布した際も、第一条をこれまでの「文武弓馬の道に励む」から「文武忠孝を励し、礼儀を正すべき」、つまり学問・武芸・忠義・孝行に励むようにと変更しています。こうした儒学に基づく施策の一環として出されたものが、生類憐れみの令だったのです。

生類憐れみの令とは?いつから始まったのか

生類憐れみの令は先に述べた通り、徳川綱吉の治世中数十年にわたって100回以上出された生類(生きもの)保護に関する法令の総称です。正確なスタート時期は分かっていませんが、綱吉が即位した延宝8年(1680年)には、馬の足並みをよくするために筋肉を切る、という風習を禁じており、これが生類憐みの走りだったのでは、とされています。

また、会津藩(福島県など)の記録によれば、貞享元年(1684年)6月に「生類憐み」を命じられたことから、毎年実施していた巣鷹の献上をやめるようにした、とのこと。続いて貞享3年(1686年)には「最前も申し渡しているが、飼い犬に食べ物を与えず、犬などの生類をもらったりあげたりする習慣がないという。生類を憐れむようにという命令を心得違いしているようだが、どのような事情があるにせよ生類憐みの志をもって生類と接するように心得なさい」という町触れが出ています。これが「生類憐み」という言葉が出てくる最初の幕府の法令資料で、この前後から生類憐みの政策が始まっていたようです。

生類憐れみの令が出された理由は

生類憐れみの令が出された理由として、最も知られているのが綱吉の母・桂昌院(お玉の方)のエピソードではないでしょうか。桂昌院はもともと西陣の八百屋の生まれで、家光の側室から将軍の母にまで上り詰め、「玉の輿」の由来となった人物です。

天和3年(1683年)に綱吉の子・徳松が5歳(満4歳)の若さで病死し、綱吉に跡継ぎが生まれないことを懸念した桂昌院が、帰依している僧侶「隆光」に相談したところ、世継ぎができない原因は前世の殺生だと言われます。そして「世継ぎが欲しいなら動物を、特に綱吉は戌年生まれだから犬を大切にしなさい」と助言され、それをもとに生類憐れみの令が発案された、というものです。

しかし、隆光が筑波山知足院の住職になって江戸にやってきたのは貞享3年(1686年)。それ以前から生類憐みの政策は始まっており、近年では生類憐れみの令は隆光の助言によるもの、という説はそれほど唱えられていません。

もともと儒教の思想が強かった綱吉ですから、生類を大切にするよう、人々を教化するのは流れとしては自然なことだったのかもしれません。綱吉は生類憐れみの令で生きものの命の大切さを広く訴えることで、戦国時代から続く武力を重視し命を軽んじる価値観を変え、武断政治から文治政治への変革を試みたのです。

生類憐れみの令①犬の保護

それでは生類憐れみの令の内容について見ていきましょう。代表的なものが犬の保護で、徳川綱吉が「犬公方」と揶揄されて呼ばれるようになった原因でした。とはいえ、生類憐れみの令の最初期は馬の保護に関する法令が主で、犬については貞享2年(1685年)に「将軍御成の際には道筋に犬や猫をつなぐ必要がない」と出されたのが最初のようです。

貞享3年(1686年)には、大八車や牛車で犬を轢く事件が多発していることを受け、荷物を運搬する際は見張りを立て、町人たちも気を付けるようにという町触と、上述の通り「生類憐みの志」で犬を含む生類と接するように、という町触が出ています。

犬の保護はその後加速していき、捨て犬を禁止し、野犬にはエサをやり、個人の飼い犬は「毛付帳」を作成して管理するようになります。そしてついには野犬などを保護するために「犬小屋」「御用屋敷」「御囲(おかこい)」などと呼ばれる専用の保護施設を作ります。

犬小屋は当初は武蔵国多摩郡世田谷領喜多見村(東京都世田谷区)の側用人・喜多見重政の屋敷の一角に設けられました。主に病気の犬や子犬などが収容され、しっかりとした食事に病気になった際の医者の手配も実施。犬たちはかなり良い生活をしていたようです。

さらに幕府は大久保・四谷・中野(いずれも東京都)に犬小屋を新設し、野犬を中心に収容し始めます。犬を手厚く保護しすぎたことで野犬による被害が増えていたこと、犬の保護に対する不満で犬の虐殺事件が発生していたことなどが背景としてあったようです。元禄8年(1695年)は最も大きい中野の犬小屋が完成。敷地面積は約29万坪にも及び、江戸の町から集められた犬が約10万匹収容されました。

犬小屋の設営費に10万匹もの犬の食費…当然かなりのコストがかかりました。当時の資料によれば、犬のエサ代は1年間で金9万8000余両もかかっていたそうです。経費の大半を担っていたのは諸大名と江戸の人々で、大名たちは主に犬小屋の設営を担当。犬の食費は町人や江戸近郊の幕領の農民たちが負担しました。幕府は町人から1間につき金3分の割合で上納金「お犬上ヶ金」を徴収し、農村からは村高100石につき1石の割合で「犬扶持」を賦課しました。当然、負担を強いられた人々たちからの不満は高まります。

犬は手厚く保護すればするほど増え、犬小屋のコストはますます増加し、人々の不満が噴出するという負のスパイラル。このため幕府は犬小屋の縮小をはかり、江戸近郊の農村を対象に、集めた犬を養育金とともに預けるようになります。養育金は1年間で金2分で、農村にとっては貴重な現金輸入となったようです。

生類憐れみの令②牛馬から虫まで保護

生類憐れみの令は犬以外の動物も保護しています。幕府は貞享4年(1687年)に病気の牛馬を捨てることを禁じる町触を出したのを皮切りに、何度も病気の牛馬を保護する町触を出しました。牛馬については重荷を負わせることも禁止。馬に関しては馬の筋を伸ばさない、尾先を焼くのは治療の時だけ、尾を巻くのは雨天の時縄二重まで、など細かい規制も設けました。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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