享保の改革(2/2)徳川吉宗の大改革
享保の改革
加えて井澤弥惣兵衛や田中丘隅らと新田開発に取り組みます。この結果、武蔵野新田(現東京都・埼玉県西部、武蔵野周辺)や見沼新田(埼玉県さいたま市)などが誕生しています。新田開発により幕府直轄領の石高は、享保7年が404万石だったところ、享保21年(1736年)には457万石まで増加しました。
また、吉宗は農産物の栽培を奨励します。飢饉対策として、青木昆陽を登用して甘藷(さつまいも)の栽培・普及に取り組みました。このほか都市部の需要を鑑み、菜種油の原料となる菜種や朝鮮人参などの薬草の栽培を奨励しています。
享保の改革⑤年貢の定額化と「五公五民」で農民から非難が殺到
徳川吉宗は新田開発の一方、年貢の引き上げにも取り組みました。今までは年ごとに収穫高に応じて年貢を徴収する「検見法」をとっていましたが、吉宗は一定期間の平均収穫高をもとに試算した年貢高を納める「定免法」を新設し、年貢収入の安定化をはかりました。農民にとっては豊作の時はラッキーですが、凶作の時は貧困の原因となる策です。このため、幕府は「破免検見法」と呼ばれる、凶作時には定免法をやめて検見法を採用する方法も取るようになりました。
加えて享保13年(1728年)には年貢率を「四公六民」から「五公五民」に引き上げました。つまり収穫した米の半分を幕府に納めよ、というわけです。翌享保14年(1729年)の年貢収納率の平均は、引き上げ前から約4%増の36%強だったようで、実際は三公七民レベルだったようですが、これはあくまでも平均値であり農民の負担増は事実でした。このため怒った農民たちによる一揆が多発しています。百姓一揆は江戸時代を通して行われていましたが、享保年間は特に幕府領で集中的に発生しました。
享保の改革⑥「米将軍」吉宗
幕府の歳入増加のために「米」にこだわり続けたことから「米将軍」と呼ばれた徳川吉宗。さらに取り組んだことが「米価」対策でした。米の生産増に伴う供給過剰や、新井白石の貨幣改鋳を原因としたデフレにより、吉宗の時代、米価はどんどん下落していました。俸禄米を支給されていた武士たちにとっては実質的な給与カットで、生活は苦しくなる一方でした。
このため吉宗は各藩に飢饉に備え米を備蓄する「囲米」や、幕府が米を買い上げて備蓄する「買米」などを実施し、米市場から米を引き上げて米価格を調整しようと試みます。さらに享保15年(1730年)には大坂の堂島米市場(大阪府大阪市北区)を公認。ところが享保17年(1732年)に享保の大飢饉が発生したため、幕府は逆に囲米の放出による米価の上昇を防ぐ方に回らざるを得ませんでした。
その後も米価格は低迷し続けました。その一方で、都市を中心とした生活物資などの需要の高まりにより、米以外のものの物価はそれほど下がらず、相対的に物価が上昇したかのような状態になりました(米価安の諸色高)。
享保の改革⑦元文の改鋳
米価がなかなか上がらないなか、ついに徳川吉宗は貨幣の改鋳を行います。吉宗は新井白石の貨幣改鋳、つまり金・銀の質を高める方法については評価をしていたため、最初は貨幣に手を付けず、享保15年(1730年)に各藩の独自通貨である「藩札」の禁止令を解除して貨幣の供給量を増やそうと考えました。ところが各藩は藩札で領内の米を買い、大坂で米を売って銀貨を得ようとしたため、市場における米の供給量がますます増え、さらに米価が下がってしまいます。
ここで対策を練ったのが南町奉行の大岡忠相でした。忠相は吉宗に「米価の上昇のために品位を落として通貨の流通量を増やすしかない」、つまり、金貨や銀貨の金・銀の含有率を下げた貨幣の改鋳を提案します。
これをうけ、吉宗は元文元年(1736年)に品位を落とした貨幣を鋳造する「元文の改鋳」を実施します。金の含有率は正徳4年(1714年)の享保小判の約86.8%に対し、元文小判は約65.7%に低下。銀の含有率は享保丁銀の約80.0%に対し、元文丁銀は約46.0%と大幅に減少しました。交換比率は例えば金貨の場合、旧金貨100両に対し新金貨は165両で、交換促進のためだいぶ優遇しました。
元文の改鋳は、実施直後は急激なインフレを招いたものの、やがて物価は落ち着き米価も上昇。やがて物価と金銀相場は安定し、デフレからの脱却につながりました。元文金銀はその後80年余り使われ続けることになり、元文の改鋳は幕府初のリフレーション政策、つまりデフレから脱却してインフレにならない程度まで物価を引き上げる政策として、現代でも評価されています。
享保の改革⑧目安箱をはじめ他にもさまざまな政策を実施
このほか、徳川吉宗は享保6年(1721年)、庶民から広く意見を募るための「目安箱」を江戸城和田倉門近くの評定場前に月に3回設置しました。目安箱には庶民が自由に投書することができました。ただし住所氏名を書く必要があります。
目安箱には鍵がかけられており、吉宗自ら鍵を開けて投書を読み込みました。投書が採用された例として有名なのが、享保7年(1722年)の小石川養生所の設置です。町医者の小川笙船の投書をもとに設立された施薬院で、明治維新で廃止されるまで続きました。
また、吉宗は江戸の火事対策として町人の自治組織「町火消」を設置。大岡忠相が中心になったもので、町奉行の指揮下に「いろは四十七組」が設けられました。
他にも吉宗は1742年(寛保2年)に法典「公事方御定書」を制定。中国の法律を参照にしたもので、上下巻に分かれており、上官に法令が、下巻は判例が書かれていました。罪人の社会復帰をサポートする「更生」思想が盛り込まれているのが特徴です。
享保の改革の評価は?
徳川吉宗は享保の改革により、幕府の財政を好転させることに成功しました。しかしその一方で農民は疲弊し、一揆が多発。数々の政策のなかには失敗作もあり、その場しのぎの一時的な法令も見受けられること、上米制で幕府の権威を失墜させたなど、マイナスの影響もあります。とはいえ、享保の改革はその後の江戸幕府に大きな影響を与えていくことになるのです。
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- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。