享保の改革(1/2)徳川吉宗の大改革
享保の改革
江戸時代には数々の政治改革が行われましたが、将軍自らが改革の指揮を執ったのが『暴れん坊将軍』で有名な8代将軍・徳川吉宗による「享保の改革」です。吉宗は身分を問わない積極的な人材登用、年貢の定額化、新田開発などさまざまな改革を実施し、幕府の財政を立て直すことに成功しています。今回はそんな享保の改革について分かりやすく解説します。
享保の改革はなぜ起きた?:「正徳の治」の負債
6代将軍・徳川家宣と7代将軍・徳川家継の時代は儒学者・新井白石による改革「正徳の治」の真っ最中でした。白石は幕府の赤字財政を改善するため、貨幣の改鋳や貿易の縮小などを実施します。特に貨幣の改鋳では、これまで金貨や銀貨の金・銀の保有量を減らしていたものを江戸時代初期レベルまで戻しました。
ところが、金・銀の産出量が減少するなかでの改鋳により、デフレが発生。さらに、米の不作による年貢の落ち込み、歳出の拡大などで幕府の財政難は続きます。加えて正徳6年(1716年)、徳川家継が8歳で早世してしまいます。
家継の跡継ぎに選ばれた徳川吉宗
わずか8歳の徳川家継に直系の跡継ぎは当然おらず、次期将軍は尾張・水戸・紀州の徳川家康の血を継いだ「御三家」から選ばれることになりました。このうち候補としてあがったのが尾張徳川家の徳川継友、水戸徳川家の徳川綱条、そして紀州徳川家の徳川吉宗です。実はこのほかに徳川家宣の弟で舘林藩主の松平清武がいましたが、54歳と高齢だった(当時からすれば)ため将軍を辞退しています。そして候補者争いの結果、徳川家宣の妻・天英院らの後押しもあり、徳川吉宗の8代将軍就任が決定しました。
徳川吉宗は2代藩主・徳川光貞の4男で、もともと藩主になる予定はなかった人物です。ところが藩主を継いだ兄たちが次々と亡くなったことで、第5代藩主に就任しました。
紀州藩主時代は、藩の財政改革に精力的に取り組み、武家から庶民まで徹底的な質素倹約を求めました。食事は1日2食で一汁三菜に限り、自ら木綿の服を着て節約に務めたと伝わっています。また、和歌山城の前に目安箱の原型ともいえる「訴訟箱」を設置。新田開発にも取り組みました。この時の経験が将軍になってから活かされることになります。
享保の改革①人材登用と「足高の制」
徳川吉宗は将軍職に就いたのち、さまざまな改革を実施します。まず初めに取り組んだのが、徳川家継時代の人員整理と有能な人材の登用です。吉宗はこれまで政治の中心だった側用人の間部詮房と侍講の新井白石を解任しました。
そして信頼のおける紀州藩士を多く幕臣に登用。最終的には205人の藩士たちを幕臣にしています。ただし、これまでの幕閣に配慮して過度に出世させないようにしたため、反発はそれほどなかったようです。
紀州藩出身者の筆頭が有馬氏倫と加納久通で、老中や奉行たちの連絡係として新設した「御用取次役」に任命されました。加えて紀州藩主時代の新田開発の担当者・井澤弥惣兵衛を勘定所に登用しています。
また、吉宗は身分にとらわれず有能な人材を側近として登用しました。その一人が時代劇『大岡越前』でお馴染みの名奉行・大岡忠相。このほか儒学者の室鳩巣や荻生徂徠、青木昆陽、農政家の田中丘隅など幅広いタイプの人材を重用しています。
そうした有能な人物を登用するための制度が、享保8年(1723年)に出された「足高の制(たしだかのせい)」です。当時、江戸幕府の役職には家禄(各家で世襲された俸禄)の基準値が設けられていました。これは必要経費をまかなうためで、例えば町奉行の場合は、家来の給料、ふさわしい屋敷・服装などの準備、交際費などの出費があるため、基準値は3000石以上でした。基準値は役職に就いたものが経済的に困窮しないように、という配慮である一方、既得権益を守るためのものでもありました。
しかし、吉宗は足高の制により、家禄が基準値を下回る者に対し、役職の就任期間に限り不足分を幕府がサポートするようにしたのです。この制度のメリットは、家禄が低くても出世できるということで、特に身分の低い者たちのモチベーションの向上につながりました。大岡忠相も1700石の旗本でしたが、この制度を利用して江戸の南町奉行に就任しています。
一方、幕府にとってもメリットだったのが、家禄を上げずに優秀な人材を確保できること。一度増加した家禄は世襲されるので、役職をやめた後も家禄は変更できず、幕府の歳出増につながります。足高の制はあくまでも「期間限定の補填」であり、増加ではありませんでした。とはいえ、実際は退任時に家禄が加増される事態が起こっていたようです…。
享保の改革②倹約令
紀州藩主時代から倹約に努めていた徳川吉宗は、将軍に就任後、政治の立て直しのために「権現様(=徳川家康)のころから格式として定められたものは無用のものでも省略しないが、そのほかのことはできるだけ簡略化して冗費を省く」と宣言しました。
そして幕府の歳出削減に向け、寺院の建立・修繕を厳しく制限するとともに、享保6年(1721年)に勘定所を財政運営を担当する「勝手方」と訴訟を扱う「公事方」に分け、勝手掛に老中・水野忠之を任命しました。勝手方が歳出削減に集中的に取り組むことで改革を加速させようとしたのです。
吉宗は大奥にもメスを入れました。大奥に美女50名を選抜するよう命令したのです。「側室選びか!」と気合を入れる女性たちでしたが、選ばれた女性たちは「美人なら嫁の貰い手があるはず」と辞めさせられてしまいました。
享保の改革③「恥辱」的な上米制
歳出を抑えるための倹約に励む一方で、徳川吉宗は歳入の増加にも力を入れました。享保7年(1722年)、吉宗は「上米制」を実施します。これは大名に石高1万石につき100石の割合で米を献上させる代わりに、参勤交代における江戸の滞在期間をこれまでの1年から半年に減らすというもの。江戸での滞在費は各藩にとって大きな負担だったため、お互いにWin-Winというわけです。
上納された米は年間18万7000石に上り、旗本・御家人への俸禄米(給料)の総額の約5割に上りました。これで幕府は一定の米を手に入れられるようになったわけですが、幕府の財政を藩頼みにしたことで幕府の権威は失墜します。
吉宗としては幕府が各藩に頼らざるを得ない「恥辱」的な上米制は一時的なものだと考えていたようで、幕府の歳入がある程度回復したため享保15年(1730年)に廃止しています。
享保の改革④新田開発と農業振興
歳入増加のためのもう一つの策が、新田開発です。当時、新田開発はある程度開発しつくされていました。そこで吉宗は享保7年(1722年)に江戸日本橋に高札を立てて、江戸の商人たちが届出制で新田開発を請け負うよう呼びかけました。
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。