正徳の治(2/2)新井白石による政治改革
正徳の治
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日本はオランダとの貿易で中国産の生糸や絹織物、香木などを輸入し、銀や金(小判)を輸出していました。日本の純度の高い銀はとても人気でしたが17世紀後半に幕府が輸出を禁止し、以降は小判と銅を輸出していました。また、清との貿易では貿易品に対し対価を銀で支払っていました。
新井白石は「幕府の設立から約100年間で、長崎経由で海外に流出した金銀銅は、金が国内流通量の1/4にあたる約730万両、銀が3/4にあたる約120万貫、銅が22億3000万斤にも及んでいる。このままいけば100年たたないうちに金銀銅は尽きる」とし、財政再建の観点で貿易の制限を訴えます。そして正徳5年(1715年)に「海舶互市新例」と呼ばれる一連の法案を発布し、長崎での貿易を制限します。
中国に対しては、貿易額を銀6000貫・船数を年間30隻に制限し、銅の輸出を300万斤に。オランダに対しては貿易額を銀3000貫・千数を2隻に制限し、銅の輸出を150万斤としています。また、清との密貿易が横行していたことを受け、信牌と呼ばれる入港許可書を導入して持参を義務付けました。
実は新井白石の試算の数字は徳川綱吉の時代に銀の貿易が禁止したことなどは考慮されておらず、儒教的な抑商思想による恣意的な数字でした。しかし、金銀銅産出量の減少に密貿易の横行などの問題があったことなどを受け、貿易縮小が決定したようです。
正徳の治④朝鮮通信使の接遇費を節約
新井白石が外交で実施した政策はまだあります。その一つが朝鮮通信使の待遇の変更です。豊臣秀吉の朝鮮出兵で関係が悪化した朝鮮との国交は、江戸幕府初期に対馬藩(長崎県対馬市と佐賀県の一部)の宗氏のとりなしで復活し、朝鮮から通信使が訪れるようになっていました。
徳川家宣の時代にも正徳元年(1711年)に通信使の来訪が決まりました。通信使をもてなすには1度に約100万両かかり、コスト高に幕府も藩も悩んでいました。
これを受けた新井白石は大幅な経費削減と大名・庶民の負担減に取り組みます。対馬から江戸までの間に開催される宴席を6ヶ所に限定し、接遇の際の小道具に高価なものを使用するのを禁止することなどにより、接遇費用を60万両までカットしました。なお、この変更を通信使に来日直前に伝えたことで、のちに国際問題に発展しています。また、将軍の呼び名を「大君」から朝鮮と対等にするために「日本国王」に変更しています。
正徳の治⑤行政・司法機関の綱紀粛正や武家諸法度を改定
新井白石は財政再建以外にもさまざまなことに取り組んでいます。荻原重秀が廃止した勘定吟味役を再度設置し、賄賂が横行していた勘定所の綱紀を粛正。さらに江戸時代の最高裁判所的な存在だった「評定所」を改革し、審理の遅れや判決の不公正化の是正をはかることで、儒教的な「仁政」(人民をいつくしみ思いやる政治)の実現をめざしました。
また、武家諸法度も改定。それが宝永7年(1710年)の「宝永令」で、儒学思想に基づき大幅な改定が行われており、役人の賄賂を禁止する条項や、裁判を重視する条項が盛り込まれています。
正徳の治⑥閑院宮家の創設
徳川家宣の時代、皇室と宮家(伏見宮家、京極宮家、有栖川宮家)は跡継ぎ以外は親王を名乗れず、それ以外の子女はすべて出家するという慣習がありました。これに対し新井白石は、朝幕関係の融和と共存共栄の観点から、皇室の嫡流を途絶えさせないための対策が必要であると進言。家宣もこれに賛同し、朝廷側の意向を踏まえたうえ、宝永7年(1710年)8月、東山天皇の第7皇子・秀宮による親王宣下で新しい宮家「閑院宮家」を創立しました。
創立から約70年後、後桃園天皇が崩御した際、皇子がいなかったため閑院宮家から兼仁親王が天皇の養子となって光格天皇として皇位を継承。その後、閑院宮の血統は現在の皇室まで皇統として続いています。
正徳の治から享保の改革へ
7年間続いた正徳の治は、正徳6年(1716年)に徳川家継が8歳で早世したことで終焉を迎えます。後を継いで8代目の将軍となったのは紀州藩主の徳川吉宗でした。徳川吉宗は将軍就任後、新井白石と間部詮房を罷免します。これにより白石は隠居し、執筆活動にいそしみ、享保10年(1725年)5月19日にこの世を去りました。
徳川吉宗はその後、武家諸法度をはじめ、正徳の治の法令の多くを廃止してしまいます。とはいえ、必要と感じたものはそのまま残しており、海舶互市新例は継続、良貨重視の政策も当面は続きました。そして能力重視の登用を進め、幕閣を一新した徳川吉宗は財政再建をめざし「享保の改革」を実施することになるのです。
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- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。