曽根崎心中(2/2)近松門左衛門の代表的な「悲劇」
曽根崎心中
世話物は町でおきた実際の事件を題材にするケースもあり、『曽根崎心中』も実はもとになった事件があります。それが露天神社(大阪府大阪市北区曽根崎)の森で元禄16年(1703年)4月7日に起きた男女の心中事件です。
宝永元年(1704年)に刊行された、心中の記録をまとめた物語『心中大鑑』によれば、男は内本町(大阪府大阪市北区)にある醤油問屋・平野屋忠右衛門の手代の一人で、主人の兄の子にあたる「徳兵衛」25歳。女は堂島新地(大阪府大阪市北区・福島区)にあった天満屋の遊女「お初」21歳でした。
お初は京の生まれで島原の遊郭で評判の女郎でしたが、後に堂島新地に流れてきて徳兵衛と恋愛関係になります。そこへ平野屋忠右衛門が18歳になる妻の姪と徳兵衛を結婚させ、江戸の店に行かせる話が発生。お初の方も豊後の客から身請けの話が出ます。このため前途に絶望した2人は心中して果てたというのです。
心中事件が発生した8日後の4月15日には歌舞伎で心中を脚色した演目が上演されており、その1か月後に近松門左衛門の人形浄瑠璃『曽根崎崎心中』が上演されました。このスピード感から、心中事件への世間の関心の度合いがよくわかります。
曽根崎心中の影響
『曽根崎心中』は話題性抜群の事件を扱い、庶民にも身近な内容だったこともあり、大人気の演目となりました。公演の結果竹本座が抱えた多額の借金が返済できてしまったほどです。
一方で『曽根崎心中』の影響で心中事件が増加したという社会的影響もありました。心中は大坂から京都で流行し、江戸にまで広がりました。そんななか近松門左衛門は1720年(享保5年)10月14日に大坂・網島の大長寺(大阪府大阪市都島区)で起きた心中事件を脚色して12月6日に「心中天網島」を初演。この作品も大ヒットとなり、またもや増える心中事件…。
こうした動きを重く見た江戸幕府8代将軍・徳川吉宗は、享保7年(1722年)に心中物の狂言・絵草紙の禁止と、成仏させないために死骸の葬送は認めず、片方が生き残った場合は下手人扱いされるよう法を定めました。
翌享保8年(1723年)には心中物の禁止令に加え、心中そのものを禁止し、心中した遺体は裸にしてさらし、埋葬も許可せず朽ち果てるに任せる、としています。生き残った場合、男性は死罪、女性の場合は男性と主従関係にあれば死罪、なければ無罪です。両方とも生き残った場合は3日間さらしたのちに非人(差別される賎民)の身分に落とされました。
昭和の時代に「復活」した曽根崎心中
一大ブームを巻き起こした『曽根崎心中』でしたが、ひとしきり上演されたのちは、改作・他者による続編などはあったものの、近松門左衛門の原作完全版として再演されることはありませんでした。幕府の取り締まりが緩くなってからも同様で、理由ははっきりしません。
近松の『曽根崎心中』が「復活」したのは歌舞伎からでした。近松生誕300年にあたる昭和28年(1953年)に劇作家・宇野信夫が浄瑠璃台本をもとに脚色。冒頭の観音廻りのシーンをカットし、原作にはなかった九平次の悪事がばれるシーンが加わっています。8月に東京の新橋演舞場で初演され、以後は「宇野版」として何度も上演されています。
続いて昭和30年(1955年)1月に大阪の文楽座で人形浄瑠璃が上演されました。ただし、原曲譜は失われていたため作曲しなおしており、観音廻りも省略され、心中部分も大幅にカットされました。
観音廻りの扱いが悪いのは、三十三箇所の観音廻りの札所を羅列する内容なので、宗教的色合いが強い、今の歌舞伎や文楽に演出上取り入れにくい、などの理由があったようです。とはいえ、お初の観音廻りにはさまざまな意図があると多方面から研究がされており、重要な箇所であることも事実です。
このため現在は『杉本文楽 曾根崎心中付り観音廻り』のように、原作を忠実に舞台化し、国内外で大きな評価を得ている人形浄瑠璃作品も出ており、江戸時代に近い形で鑑賞できるようになってきました。さまざまなバージョンがある作品ですので、興味のある方はぜひ一度、舞台に足を運んでみてはいかがでしょうか。
曽根崎心中の記事を読みなおす
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。