曽根崎心中(1/2)近松門左衛門の代表的な「悲劇」
曽根崎心中
元禄時代(1688年~1703年)、第5代将軍・徳川綱吉のもとで演劇や文学、美術に工芸、学問などさまざまな文化が発展しました。そんな元禄時代を代表する近松門左衛門の名作が『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)』です。実際の心中事件をもとに描かれた人形浄瑠璃は江戸時代の人々を夢中にさせ、心中が増えるなどの社会的影響を与えました。今回はそんな『曽根崎心中』について、わかりやすく解説していきます。
曽根崎心中の作者・近松門左衛門と浄瑠璃
『曽根崎心中』は浄瑠璃・歌舞伎の作者として知られる近松門左衛門の代表作です。近松門左衛門は、承応2年(1653年)に越前国(現福井県)の武士の息子として生まれました。本名は杉森信盛で、公家などに仕えましたが、やがて人形浄瑠璃のとりこになり、町人として作家業を営むことになります。
ちなみに浄瑠璃は三味線の伴奏で物語に節をつけて語る音曲のこと。もともとは琵琶の伴奏で平家物語等を語る「語りもの」でしたが、室町時代の中ごろに流行した『浄瑠璃御前物語』にちなみ、語りものの一種として成立しました。なお、浄瑠璃の物語の語り手を「太夫」と呼びます。
この浄瑠璃が「人形遣い」の操る「人形」と結びついたのが「人形浄瑠璃」で、16世紀末から17世紀初めころに成立しました。大阪の伝統芸能として発展して「文楽」とも呼ばれるようになり、「人形浄瑠璃文楽」としてユネスコの無形文化遺産にも登録されています。
近松門左衛門の時代は京都と大阪が人形浄瑠璃の中心地として知られていました。近松は浄瑠璃太夫の宇治加賀掾のもとで修行したのち独立し、新進気鋭の太夫・竹本義太夫と組み、竹本座で人形浄瑠璃を上演するようになります。現在の文楽は「義太夫節」で語られますが、この義太夫節の創始者は竹本義太夫です。義太夫が登場するまでの浄瑠璃は「古浄瑠璃」と呼び分けられています。つまり、近松は当時の文化の最先端にいたのです。
その後、近松は京都の人気役者・坂田藤十郎のために歌舞伎の脚本を30作品ほど書き、人形浄瑠璃の世界と少し距離が空きましたが、借金に苦しむ竹本義太夫の依頼により再び人形浄瑠璃の世界に戻ります。そして元禄16年(1703年)5月7日、竹本座で『曽根崎心中』を上演し、大ヒット作となりました。
竹本座専属の「座付」作者となった近松は京都から大阪に引っ越し、『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』『心中天の網島(しんじゅうてんのあみじま)』など次々とヒット作を生み出します。晩年は後継者の育成につとめるとともに、享保9年(1724年)1月には最後の作品『関八州繋馬(かんはっしゅうつなぎうま)』を発表。同年11月22日に72年の生涯を閉じました。
曽根崎心中のあらすじ①騙された徳兵衛
さて、いよいよ『曽根崎心中』のあらすじを見ていきましょう。なお、『曽根崎心中』は後にさまざまなアレンジが加えられていますが、今回は近松門左衛門が書いたテキストの現代語訳をご紹介します。
主人公は天満屋の遊女の「お初」と醤油屋・平野屋の手代の「徳兵衛」。この二人が世をはかなんで心中するまでを描いた物語です。物語の舞台は大坂。4月6日、「大坂三十三所観音廻り」を終えたお初は生玉(大阪府大阪市天王寺区)で徳兵衛と再会します。恋仲の二人でしたが、お初は最近なかなか会いに来ない徳兵衛を非難します。
これに対し、徳兵衛は自分の体験を語り始めます。実は徳兵衛は奉公先の叔父の家での働きが認められ、係累の娘との結婚話が出ていたのです。徳兵衛は拒否しますが叔父が勝手に話を進めてしまい、徳兵衛の継母に結納金を納めてしまいました。
しかし、徳兵衛は結婚には断固として応じませんでした。遊女のために結婚しないと言い張る徳兵衛に叔父は激怒します。そして、徳兵衛を店から追い出すとともに結納金を4月7日までに返すよう求めました。徳兵衛は結納金を取り戻しますが、店に返しに行く途中に友人の九平次と出会います。九平次は仲の良い親友で、「お金を貸してくれ、3日の朝には返す」と徳兵衛に泣きついてきたのです。人の良い徳兵衛はお金を貸してしまいましたが、3日がすぎてもまだ戻ってきていません。
徳兵衛がお初に説明しているところに九平次が通りかかります。九平次に借金返済を求める徳兵衛ですが、証文まであるにもかかわらず、九平次は「一銭も借りていない」としらを切ります。証文を見せられても「証文の印判はなくしてしまったものだ」「俺の印判を拾ってお前が証文を偽造したんだな!」徳兵衛を詐欺師呼ばわりします。裏切られた徳兵衛は九平次に殴りかかりますが、九平次の仲間に袋叩きにされてしまいます。助けようとしたお初でしたが、お初の身を案じた客に先に帰されてしまいました。
曽根崎心中のあらすじ②死を決意する二人
傷つき絶望のどん底に落ちた徳兵衛は、死んで身のあかしを立てるしかないと死を覚悟し、お初のいる天満屋に向かいます。お初は徳兵衛をこっそり店の縁の下に隠しました。そこへ酔っぱらった九平次がやってきて「徳兵衛は詐欺師」「いずれは刑場で首をはねられる運命」と嘘を言い悪口をぶちまけました。怒り心頭の徳兵衛でしたが、お初は必死に押しとどめます。
そして九平次の前で独り言のように「こうなったら徳さまは死ななければならないけれど、死ぬ覚悟が聞きたい」と言いながら、縁の下の徳兵衛に足で心中の覚悟を問いかけます。これを受けた徳兵衛はお初の足を取って刃物のように喉笛に当て、自殺することを知らせました。
これを受けたお初は「徳さまは死んで名誉を取り戻さずにはいられないでしょう」と続けます。九平次は驚いて「何を言うんだ、徳兵衛が死ぬはずがないし、もし死んだらお前は俺が懇意にしてやるよ、俺に惚れてるようだしな」と軽口をたたきます。しかし、お初は「ありがとう、私と懇意になってくれたら、お前を殺してやるがそれは承知の上か。徳さまと離れたら片時も生きていけない。九平次の盗人め、ふざけたことを言って誰が信じるものか。何があっても私は徳さまと一緒に死ぬ」と言って泣き出します。
お初を気味悪がった九平次が捨て台詞をはいて去り、天満屋の亭主たちも寝静まった真夜中。お初は白無垢に黒小袖を羽織った死に装束に着替え、徳兵衛と手を取りあって抜け出します。そして曽根崎の天神の森に向かうのです。
曽根崎心中のあらすじ③名文の道行、そして心中
浄瑠璃には数々の「名文」と呼ばれるものがありますが、その一つが『曽根崎心中』の「道行」。出発地から目的地に行くまでの道のりを文学的につづったものですが、天満屋から天神の森までの道行は一言では言えないほど美しく、当時の高名な儒学者がべた褒めしています。とくに有名なのが冒頭の文章ですが、ここでは数節引用します。
「此世のなごり夜もなごり 死にゝゆく身をたとふれば あだしが原の道の霜 ひと足づゝにきえていく 夢の夢こそあはれなれ あれ数ふれば暁の 七つの時が六つなりて、のこる一つが今生の 鐘のひゞきのきゝをさめ 寂滅為楽とひゞくなり」
全体的に七五調でリズムを整え、「此世」「夜」などをはじめ韻を踏み、「霜」が「きえて(消えて)」といった縁語を使うなどのテクニックを駆使しつつ、死にゆく者たちのもの悲しさ、切ないまでの美しい情景が見えてきます。
直訳すると「この世の最後、夜も最後。死にゆく二人の身をたとえるならば、あだしが原(=墓地)の道におりる霜が一足ずつに消えてゆくようなものだ。夢の中で夢を見るように哀れである。あれ、数えると暁の七つの時の鐘が六つ鳴り、残る一つが今生の鐘の響きの聞き納めだ。涅槃の境地に入れば真の安楽を得ることができる…と響いている」となります。この場合の寂滅、つまり涅槃は転じて死を意味します。
その後、二人は生まれ変わって来世では添おうと神に近い、天神の森にあった連理の木(縁結びや夫婦和合の象徴)に永遠の愛を誓い、帯で木に体をしばりつけます。そして徳兵衛は脇差で愛するお初の命を奪おうとしますが躊躇します。しかし、最終的には脇差はお初の喉笛に。そして徳兵衛も「私も遅れまい。息はともに引き取ろう」と剃刀を喉に突き立てて自死しました。
浄瑠璃の最後には、二人の話は世間に伝わり、身分を問わず多くの人に広まり供養されたのであの世でともに成仏したことに疑いはないだろうとしたうえで、「恋の手本となりにけり」と締めくくっています。
「世話物」曽根崎心中は実話?
『曽根崎心中』で近松門左衛門は「世話物」と呼ばれるジャンルを確立しました。世話物とは、江戸時代の町の人々の生活や風俗などを背景とし、恋愛沙汰や身近な事件などを題材にした作品のこと。実は近松は歌舞伎作家時代、「世話狂言」と呼ばれる庶民の身近な事件を題材にした作品を執筆しており、その手法を活かして世話物を描いたのです。
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。