シャクシャインの戦い(1/2)松前藩vsアイヌの戦い
シャクシャインの戦い
江戸時代、蝦夷地(現在の北海道、サハリン島、千島列島など)の大部分にはアイヌが住んでいましたが、江戸幕府が置いた松前藩が徐々にアイヌへの支配を強めていき、アイヌと幕府の対立が深まっていきます。そんななか、アイヌの部族間同士の対立がアイヌvs松前藩の戦いに拡大したのが、寛文9年(1699年)6月に起こった「シャクシャインの戦い」です。アイヌの首長・シャクシャインの呼びかけでアイヌたちが一斉蜂起した戦いは、シャクシャインの謀殺により幕を閉じます。今回はそんなシャクシャインの戦いについて、分かりやすく解説していきます。
江戸時代の蝦夷地を支配した松前藩
シャクシャインの戦いに入る前に、江戸時代の蝦夷地、なかでも北海道の状況について解説しておきましょう。15世紀ころからアイヌたちと本州から北海道に渡った和人の間で対立が深まり小競り合いが起きていました。
康正3年(1457年)には大規模な戦い「コシャマインの戦い」が発生します。志濃里(北海道函館市)で起こったアイヌの男性と和人(鍛冶屋)の間に金銭トラブルが発生し、鍛冶屋がアイヌの男性を刺殺したことが戦いのきっかけでした。和人の支配に不満を抱いていた渡島半島東部のアイヌが首長のコシャマインを旗頭に武装蜂起したのです。
アイヌ軍の勢いは強く和人たちは追い詰められますが、蠣崎氏の客将・武田信広の活躍により和人軍はアイヌ軍に勝利します。信広はコシャマインの戦いでの勝利を機に蠣崎氏の養女と結婚して蠣崎氏の家督を継ぎ、北海道の和人たちをまとめていきます。この蠣崎氏が後の松前氏です。
蠣崎氏は豊臣秀吉の時代に蝦夷地と松前を安堵され、その後松前氏と名前を変えて徳川家康に仕えました。慶長9年(1604年)には徳川家康から蝦夷地の支配とアイヌとの交易の管理を認める「黒印状」が与えられています。
黒印状で交易について触れられているのは、松前藩では当時は稲作ができず、米による年貢を治めるのが難しかったためです。他藩とは違い、松前藩はアイヌとの交易を独占し、交易による利益や商品流通の課税などにより藩の財源を確保していました。
黒印状には「松前氏の許可なく和人は蝦夷地に行って商売はできないが、アイヌたちはどこに行っても商売しても構わない」と書かれており、この時点では江戸幕府はアイヌの自由な往来を認めています。当時アイヌたちは本州や千島半島、樺太から盛岡藩領(青森県東部、岩手県、秋田県北東部)まで広い範囲を動き回って交易していました。成立したばかりの松前藩ではこれを規制することが難しかったのです。
アイヌの生活を脅かす和人たち
松前藩は和人の土地とアイヌの土地を分けるとともに、交易地を松前城下に限定。アイヌとの交易はすべて松前藩を通して行うことを命じました。その後、交易は北海道各地に作られた海沿いの「商場(あきないば)」もしくは「場所」と呼ばれる特定の地域で実施されるようになっていきます(商場知行制)。
商場は上級家臣たちに割り当てられ、藩士もしくはその使用人が商場でアイヌと交易し、その利益が藩主の収入となっていました。なお、交易を商人が代行することが次第に増えていき、18世紀前半にはほとんどの商場の藩士たちが交易権を商人に委託し、自らは運上金を受け取るだけの「場所請負制」に移行しています。
商場が定まったことで、アイヌたちは自由に交易できなくなってきました。商場によってはアイヌに不利な条件で交易をおこなうケースもでてきており、例えば以前は干し鮭100本と米2斗を交換していたのを、米0.7~0.8斗に減らされる、といった具合にアイヌが採った鮭や鱒、鰊などを松前藩が買いたたくこともありました。子供を人質にとって脅したケースもあり、アイヌたちにとっては苦難の連続。不公正な交易を押し付けられたことでアイヌたちの不満は徐々に大きくなっていきます。
加えて松前藩は多くの大名から鷹を求められる鷹の名産地としても知られるようになります。江戸時代、鷹狩は重要な軍事訓練として幕府から奨励されていました。松前藩の鷹は有名で、徳川家康の時代から愛されてきました。この「ブランド鷹」ともいうべき松前藩の鷹を求める大名は多く、鷹を捕まえようとする鷹打人がアイヌの狩猟場を乱すようになります。寛文年間(1661年〜1673年)には鷹を捕らえるための鷹打場はなんと300ヶ所以上に及んでいたそうです。
また、元和3年(1617年)には松前城下の楚湖(北海道松前郡福島町)や大沢(北海道松前郡松前町)で砂金が採掘されるようになり、砂金採掘場が急増。北海道でゴールドラッシュが起こりました。アイヌに焦点を当てた名作漫画『ゴールデンカムイ』などでも描かれていましたが、ゴールドラッシュは本州から多くの和人を招くことに繋がり、彼らはアイヌと問題を起こしました。砂金採取で荒れた川により鮭や鱒が激減し、アイヌたちの漁場が破壊され、生活が脅かされるようになったのです。
シャクシャインの戦い①きっかけはアイヌ民族内部の争い
和人とアイヌの対立が深まるなか起こったシャクシャインの戦いですが、そもそものきっかけはアイヌ民族内の部族間の対立でした。当時は一口にアイヌといっても一枚岩ではなくさまざまな部族が存在しており、狩猟・漁業権などを巡って対立していました。
なかでもシベチャリ地方(北海道新ひだか町静内)の民族集団「メナシクル」とハエ地方(北海道日高町門別)の「シュムクル」は17世紀以降争いを続けていました。漁猟・狩猟権に加え、それぞれに伝わる神話・伝説をはじめとした文化的な違いも争いの要因だったようです。このメナシクルの首長の名前が「シャクシャイン」、シュムクルの首長の名前が「オニビシ」でした。
『津軽一統一誌』によれば、慶安元年(1648年)にメナシクルの首長・カモクタインとオニビシが開いた酒宴で、当時はカモクタインの部下だったシャクシャインがオニビシの部下を殺害。オニビシはその死の代償に物品を要求しましたがシャクシャインは応じず、両部族の争いは激化していきます。承応2年(1653年)にはオニビシが仕掛けた戦によりカモクタインが戦死。シャクシャインが跡を継いでメナシクルの首長の座につきました。
その後両部族の争いは交易や砂金採取の中断を恐れた松前藩の仲介によっていったんストップします。ところが寛文年間(1661年~1673年)には狩猟・漁業権や交易圏をめぐる対立が再燃。寛文8年(1668年)にはシベチャリ川の砂金採掘場の坑主の館を訪ねていたオニビシをシャクシャインが奇襲し、オニビシは討ち取られました。なお、両者の争いの背後には和人たちの利権争いがあったとも言われています。シベチャリ川の砂金採掘を進めたい和人が、砂金採掘に反対するシャクシャインを疎ましく思い、オニビシに手を貸していた、というわけです。
オニビシの死後、シュムクル側は劣勢に立たされます。シュムクル側は松前藩に食料や武器の貸与を依頼しますが、松前藩はこれを拒否。松前藩としては両部族を仲裁する立場であり一方に肩入れはできない、というわけです。また、ここで松前藩の持つ鉄砲をアイヌの手に渡してしまえば、アイヌたちの反乱を招く恐れもありました。両部族が争い弱体化すれば、松前藩の支配もしやすくなる。そういう考えがあったようです。
しかし、シュムクル側は諦めません。寛文9年(1669年)、オニビシと縁戚関係にあったサル(沙流)のウタフ(ウトフ、ウトマサとも)が再び松前藩に助力を願いますが、松前藩は仲裁の立場を崩しませんでした。
このウタフが帰路途中で病死してしまったのがシャクシャインの戦いにつながる大きな原因でした。死因は天然痘のようですがこれが「松前藩による毒殺だった」という噂が広まりました。和人への反感を募らせていたアイヌたちはシャクシャインの「毒殺される前に松前藩を倒そう」という呼びかけに次々と呼応していきます。
シャクシャインの戦い②クンヌイ川の戦い
ウタフの死をきっかけに、シャクシャインはアイヌたちに「松前藩はアイヌを全滅させようとしている。食べ物には毒が入っており、ウタフもそれで死んだ。毒殺される前にアイヌは立ち上がらなければならない」と檄を飛ばします。内容は文献によりさまざまですが、シャクシャインの考えは松前に攻め上り、松前藩を滅ぼした後アイヌが自由に貿易できるようにしようと考えていたようです。この呼びかけに応じたアイヌたちは、次々と和人を襲撃してきます。
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。