鎖国令(2/2)江戸幕府による「鎖国」
鎖国令
- 関係する人物
寛永13年(1636年)は「第四次鎖国令」としてカトリック教国である対ポルトガル対策を実施。幕府は貿易に無関係のポルトガル人とその妻子287人をマカオに追放し、残されたポルトガル人を同年完成した出島に移しています。
幕府が徐々に海外との貿易を制限し、キリスト教への弾圧を強めるなか、寛永14年(1637年)10月、島原の乱が発生。幕府は寛永15年(1638年)2月まで続いたキリシタンたちの大規模反乱に追われ、乱の鎮圧後はキリスト教への危機感をさらに強めました。
「鎖国」への道のり④第五次鎖国令で「鎖国」完成
そして出されたのが寛永16年(1639年)の七月令こと「第五次鎖国令」。ポルトガル船の入港を完全に禁止し、もしこれに違反した場合は船を破壊し、乗組員は斬罪に処すとしています。
また、「キリスト教徒が徒党を組んでよからぬことを企てた場合は直ちに処罰する」としており、島原の乱の影響が見受けられます。この第五次鎖国令により鎖国は完成したと言われています。
ちなみに、ポルトガルと並んでもう1つのカトリック教国であるスペインに対しては寛永元年(1624年)に国交を断絶し、スペイン船の来航を禁止しています。ポルトガルとの付き合いが寛永16年まで続いた理由としては、プロテスタント国のオランダが日本の求める交易品を提供できるようになるまで待っていたためと言われています。
オランダはスペインとオランダ独立戦争で争い、天正9年(1581年)にネーデルラント連邦共和国を成立させましたが戦争はそのまま続き、スペインとの休戦条約が結ばれたのは慶長14年(1609年)のこと。同年オランダは平戸に商館を開いています。
なお、江戸時代初期の貿易国としてあげられたイギリスはどうなったかといえば、オランダとの競争に敗れ、元和9年(1623年)に平戸の商館を閉鎖して撤退しています。
「鎖国」下の窓口「四つの口」はどこにあった?
第五次鎖国令により、いわゆる「鎖国」は完成しましたが、まだ海外との窓口はありました。それが「四つの口」と呼ばれる長崎口・薩摩口・対馬口・松前口(蝦夷口)です。
長崎口では幕府直轄の長崎奉行のもと、オランダや中国(明・清)との貿易が行われました。この2国は江戸時代には正式な国交はなく、通商関係のみだったことから「通商国」と呼ばれています。オランダ人は出島に、中国については当初は長崎の町に滞在していましたが、元禄2年(1689年)からは密貿易の防止・中国経由のキリスト教の伝播防止のために唐人屋敷に滞在するよう義務付けられていました。
薩摩口では薩摩藩(鹿児島県と宮崎県南西部)の島津氏が琉球王国と、対馬口では対馬藩(長崎県対馬市と佐賀県の一部)の宗氏が朝鮮と、それぞれ外交・貿易を実施。正式な国交があったことから2国は「通信国」と呼ばれています。
琉球王国は慶長14年(1609年)に島津氏の侵略を受けて以降(琉球侵攻)、半独立国という体をとりながらも実質は島津氏の支配下に置かれました。琉球王国からは寛永11年(1634年)を皮切りに嘉永3年(1850年)まで計18回、使節団が江戸を訪問しています。
一方の朝鮮からは慶長12年(1607年)から文化8年(1811年)まで計12回通信使(最初の3回は別の名称)がやってきています。朝鮮とは豊臣秀吉の朝鮮出兵の影響で関係が悪化していましたが、もともと朝鮮とかかわりが深かった宗氏が交渉の末国交を回復していました。
最後の松前口は松前藩(当初は北海道南部、その後拡大)の松前氏が蝦夷(北海道全島、樺太島、千島列島など)のアイヌ、ひいてはアイヌ経由でのロシア・黒竜江(アムール川)下流域の住民との交易を実施していました。
「鎖国」の終わりと「開国」
このように幕府は「鎖国」のもとで外国と交流を続けてきました。しかし江戸時代後期、ロシアやフランス、イギリス、アメリカの船が次々と日本を訪れて外交や通商をもとめて交渉します。そして嘉永6年(1853年)7月には浦賀にマシュー・ペリー率いる黒船が来航。嘉永7年(1854年)3月、日米間で日米和親条約が締結され、日本は「鎖国」を終えて「開国」することになるのです。
鎖国令の記事を読みなおす
- 関係する人物
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。