禁中並公家諸法度(2/2)江戸幕府が朝廷・公家を統制

禁中並公家諸法度

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記事カテゴリ
事件簿
事件名
禁中並公家諸法度(1615年)
場所
東京都
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江戸城

江戸城

関係する人物

当時の朝廷は、戦国時代から続く財政破たんで天皇の葬儀や即位礼が行えないような状態。スポンサーとして戦国武将たちが援助(献金)し、その見返りとして武将たちは官位を貰ったり便宜をはかってもらったりしていました。

朝廷の権力が弱まるなか、一大スキャンダルが発生します。それが慶長14年(1609年)の「猪熊事件」です。「光源氏の再来」と言われるほどのイケメン「猪熊教利」が、公家を巻き込んで宮中の複数の女性(天皇の側室含む)と密通・乱交していたのです。

猪熊教利は天皇の近臣でしたが女癖が悪く、当時の天皇・後陽成天皇の側室・長橋局に手を出し、怒った天皇により京を追い出されます。教利は大坂に出奔しましたが、ほとぼりが冷めたころにこっそり帰京。またもや女性たちに次々と手を出します。

さらに、公家の花山院忠長が天皇の側室・新大佐(広橋局)と密通していることを知ると、遊び仲間の公家たちとともに同じような手口で天皇の側室を含む女官たちと乱交パーティーを開いて遊びまわります。これを知った後陽成天皇は大激怒し関係者に死罪を命じました。

一方、事件を知った幕府側も京都所司代に捜査を命じ、板倉勝重らが捜査を開始。関わった人数の多さや、天皇の生母から寛大な処置を願うよう請願があったことなどから徳川家康が介入して天皇を説得。主犯の教利は斬首されたものの、その他の関係者は流刑などに減刑されました。

天皇の決定を幕府が覆したわけですから、怒りのあまり後陽成天皇は譲位をほのめかしますが、譲位先の弟宮・八条宮智仁親王が豊臣秀吉の猶子だったことから幕府はこれを拒否。後陽成天皇は結局、2年後に江戸幕府の意向を受け、息子の後水尾天皇に譲位しています。ちなみに後水尾天皇には中宮として徳川秀忠の娘・徳川和子が入内しています。

この一大スキャンダルに加え、公家と親王の序列争いなどもあり、朝廷は混乱状態。何とか落ち着きを取り戻したい朝廷側と、そのすきを逃さず朝廷や公家を統制しようという幕府側の意図が、禁中並公家諸法度の発布に繋がったのです。

「紫衣事件」-禁中並公家諸法度を破るとどうなる?

こうして制定された禁中並公家諸法度でしたが、この法度を利用して江戸幕府が朝廷に圧力をかけ、天皇の決定を覆した事件が寛永4年(1627年)から寛永6年(1629年)に起きた「紫衣事件」です。紫衣については禁中並公家諸法度の16条でむやみやたらに与えないようにとされていました。

そもそも紫衣とは、徳の高い僧や尼に送る紫色の僧衣のことで、天皇の勅許により与えられるものでした。与えられた僧や尼または所属する寺は朝廷に対してお金を納める決まりがあり、朝廷にとっては貴重な収入源。このため禁中並公家諸法度が出された時代は紫衣の乱発が問題になっていたのです。

禁中並公家諸法度が出されたのちも、後水尾天皇はこれまで通り、幕府に確認を取らずに十数人の僧侶に紫衣を与えていました。これを寛永4年(1627年)7月、大御所として君臨していた徳川秀忠が法度違反と指摘し、天皇の勅許状の無効と法度違反者の紫衣を取り上げるよう命じたのです。ちなみにすでに第三代将軍の徳川家光の世になっていましたが、大御所と将軍の二頭政治がおこなわれていました。

後水尾天皇や朝廷はこれに反発。寺からも大徳寺の沢庵宗彭(たくあんそうぼう)ら、妙心寺の東源慧等(とうげんえとう)らが幕府に翌年抗議書を出しています。幕府はこれを受けて勅書の一部を認めるよう譲歩したものの、彼らは抗議し続けます。このため幕府は寛永6年(1629年)に沢庵宗彭を出羽国上山(現山形県上山市)、東源慧等を奥津軽の弘前藩(青森県西部)に配流し、関係者も次々と配流していきました。

なお、紫衣事件の連座者についてはのちに幕府が譲歩し、寛永9年(1632年)の徳川秀忠の死による恩赦で許されています。

後水尾天皇が抗議の「譲位」

こうして江戸幕府は天皇の勅許を覆す力を見せつけたのです。これにブチ切れたのが後水尾天皇。抗議の意を込めて数度にわたって譲位の意向を示したものの幕府は認めません。そうこうしているうちに徳川家光の乳母・福がやらかします。寛永6年(1629年)10月に無位無官の武家の娘であるにもかかわらず、育ての親の息子・三条西実条と猶妹の縁組を結んで公家の三条西家の娘になるという裏技で、天皇に拝謁したのです。

このとき従三位と「春日局」の命号を賜っていますが、このかなり無理やりな方法での拝謁に天皇の怒りがついに爆発。幕府に対する抗議の意を込めて、第二皇女の女一宮(徳川和子の娘)を興子内親王としたうえで(内親王宣下)、11月8日に突然興子内親王に譲位してしまいます。もちろん幕府への通達などは一切なしです。ただし、後水尾天皇は院政を実施して権力を握り続けます。

江戸幕府と朝廷の関係はもはやのっぴきならない状態になりましたが、この時動いたのが徳川和子。幕府を敵視する夫・後水尾天皇と父の徳川秀忠の間を必死に取り持ちました。和子の動きもあって、結局幕府は12月に譲位を追認。自分の孫が天皇になったわけですから秀忠としても怒りきれなかったのかもしれません。

翌寛永7年(1640年)9月、まだ7歳の興子内親王が即位。奈良時代の称徳天皇以降、859年ぶりの女性天皇である「明正天皇」が誕生しました。この際、幕府は武家伝奏の中院通村を罷免し、かわって日野資勝を補任するよう朝廷に求める、つまり幕府と朝廷の連絡役である武家伝奏の人事に介入。さらに五摂家に対し、天皇に意見をしっかり伝え、公家たちの学問や禁中並公家諸法度の遵守について摂家が責任もって監督するよう伝えています。こうした策により、以後公家たちの中で「禁中並公家諸法度を守ろう」という意識が高まっていきます。

その後の幕府は寛永11年(1634年)の徳川家光の上洛を契機に後水尾天皇の院政を認めることになり、一時期危うかった幕府と朝廷の関係は歩み寄りがなされていくことになるのです。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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