禁中並公家諸法度(1/2)江戸幕府が朝廷・公家を統制

禁中並公家諸法度

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事件簿
事件名
禁中並公家諸法度(1615年)
場所
東京都
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江戸城

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江戸幕府は大名・武士や朝廷・公家を規制するため、さまざまな法を出しました。武士に対しては第二代将軍の徳川秀忠が慶長20年(元和元年/1615年)7月に「武家諸法度」を発布。朝廷や公家たちに対してはほぼ同じタイミングで「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を出しています。禁中並公家諸法度により朝廷や公家たちに政治に口出しされないよう制限することで、江戸幕府の権力をより強めようとしたのです。今回はそんな禁中並公家諸法度について、出された経緯や内容などを分かりやすく解説していきます。

禁中並公家諸法度とは?武家諸法度との共通点や違いは

禁中並公家諸法度(禁中并公家中諸法度など、別称あり)は元和元年7月17日に出された朝廷や公家を統制するための法です。一方で武家諸法度は7月7日、大名や武士たちに向けて出されており、対象者が違います。また、慶長20年7月13日に慶長→元和に改元されているので、武家諸法度が慶長20年、禁中並公家諸法度が元和元年に出されていることになりますが、差はわずか10日間しかありません。

なぜこのタイミングに法が次々に出されたかというと、慶長20年5月の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡したため。江戸幕府を開いた当時は豊臣家が存続し、徳川家と対立していたため政権は安定していなかったのです。豊臣家の滅亡により江戸幕府=徳川幕府の敵対勢力は表立ってはいなくなりました。

禁中並公家諸法度・武家諸法度ともに起草者は武家諸法度と同じ臨済宗の僧侶・金地院崇伝。家康のブレーン的な存在で法案作成や外交、宗教の統制までを引き受ける「黒衣の宰相」とも呼ばれる人物です。ただし、禁中並公家諸法度については公家の意見に基づき修正が加えられています。

禁中並公家諸法度と武家諸法度の大きな違いは、出された回数。禁中並公家諸法度については最初は「公家諸法度」という名称で、17世紀末に頭に「禁中並」がついて「禁中並公家諸法度」となりましたが、内容は変更されていません。一方で武家諸法度は最初の「元和令」と呼ばれるものから将軍が交代するたびにほぼ再発布されています(7代目の徳川家継と15代目の徳川慶喜の際は発布されず)。

禁中並公家諸法度は誰が発布した?

禁中並公家諸法度は二条城で、大御所、つまり徳川家康と二代将軍の徳川秀忠、元関白の二条昭実の3名の連署で交付されました。一番に二条昭実の署名があること、公家の意見を踏まえて制定されたものであることから、幕府からの一方的な押しつけというよりは朝廷側としてもある程度は納得して受け入れたようです。

禁中並公家諸法度の内容とは

禁中並公家諸法度は漢文で書かれており、全17条からなります。最初の12条が天皇家と公家が守るべき規定で、13条以降は僧侶の官位に関する規定が書かれています。原本は万治4年(1661年)の火災で焼失しており、その後副本をもとに復元されました。それでは、内容を見ていきましょう。

1条:天皇が身につけなければならない芸術・学問の中で第一のものは学問である。学ぶことで良き政事を行い、太平を実現できる。これは『貞観政要』に書かれている。また、『寛平遺誡』にも『群書治要』を読み習うようにとされている。加えて和歌も光孝天皇から絶えない我が国の習俗であり捨て置いてはならない。
→鎌倉時代に順徳天皇が記した有職故実の書『禁秘抄』からの引用です。この1条は「天皇は政治に関わらず学問に打ち込むべし」を意味すると言われてきましたが、近年の研究では『貞観政要』(唐の太宗の言行を記録した帝王学の教科書的存在)や『群書治要』(唐代の政治書)の名があることから、一概にそうも言えないのではとされています。

2条・3条:三公(太政大臣、左大臣、右大臣)は親王より上。前大臣は親王の下。
→朝廷を回す公家=大臣の方が次期天皇である親王より上です。公家の力の強さを物語っています。

4条・5条:摂家(藤原一族)といえども、能力がない人間は摂政・関白や三公についてはならない。ただし有能であれば老いても辞めなくてもいいし、再任もOK。
→裏読みすると能力の有無は江戸幕府が判断。つまり摂政・関白や三公は幕府の認めた人が就けるということです。ちなみに禁中並公家諸法度が出された直後、二条昭実は関白に返り咲いていますが、これは当時とすれば極めて異例の出来事でした。

6条:養子は同姓から選ぶこと。女性は家督を相続できない。

7条:武家の官位の定数は公家の官位とは無関係。
→江戸幕府が自由に武家官位を与えられるようになりました。ただし、官位の授与は朝廷が担当します。

8条:元号を変える場合、中国の言葉からいいものを選ぶこと。ただし担当者が今後十分な経験を積んだのであれば日本の先例でもOK。

9条:天皇をはじめ公家たちの礼服についてのこまごまとした規定。

10条:公家の昇進次第は旧令を守ること。ただし学問や有職、歌道に励んだり功績があったりした場合は推任・推叙するべきである。

11条:関白や伝奏、奉行の命令に公家が従わない場合は、流罪にすべきである。
→この伝奏は「武家伝奏(ぶけでんそう)」という幕府と朝廷をつなぐ橋渡し役を指します。つまり幕府の意向に逆らうと流罪になるということ。幕府が朝廷を統制するための重要な条項です。

12条:罪の軽重の判断は、名例律に従うこと。
→名例律とは奈良時代に成立した「養老律令」の一部とされる律令のこと。五刑(笞罪、杖罪、徒罪、流罪、死罪)・八虐(謀反・謀大逆・謀叛・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義)に基づいて裁かれます。

13条~15条:摂家門跡は親王門跡よりも下、など門跡の位について規定。また、僧正や門跡、院家、僧都などの決め方についても規定。

16条:紫衣を許される住職は依然少なかったが、近年みだりに勅許が出されており、席次を乱し寺院の名を汚しており、大変よくないこと。今後は本人の能力を考慮して相応しいものに紫衣を与えるべき。
→裏読みすると「紫衣を与えるには幕府の許可がいる」ということ。後の「紫衣事件」につながります(後述)。

17条:上人の選び方、天皇の勅許により上人を定めることを規定。

禁中並公家諸法度の目的は?作られたきっかけ「猪熊事件」

禁中並公家諸法度により、江戸幕府は天皇家や公家を統制することができるようになりました。ただし、前に述べた通りこれは幕府の一方的な通達ではなく、朝廷の意向を含んだものでした。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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