文化露寇(2/2)江戸時代、ロシアによる樺太・択捉襲撃事件
文化露寇
なお、この段階ではアレクサンドル1世からの計画のゴーサインは出ておらず、レザノフ自身「私案に着手したかどで犯罪者とみなされるだろうが、罰はもとより覚悟の上」との手紙を大臣あてに出しています。覚悟の上での襲撃でした。
ところがレザノフはなぜか9月24日付で、フヴォストフにあいまいな内容の指示書の補足を送っています。それには「以前に命令したことはすべてそのままにしておき、アメリカに向かうように」「しかしもし風のおかげでアニワ湾に立ち寄れたら、贈り物やメダルをあげて樺太の住民には優しくし、日本人の拠点がいかなる状況か観察するように。これを実行するだけで貴下の名声を高めるのに十分だろう」「航海中に不測の事態が起きた場合、自らの会社の利益と折り合いをつけるように」などと書かれています。
レザノフとしては計画を実施すべきか悩んでいたようで、かなりあいまいな内容です。研究者によっては「レザノフは止めたがフヴォストフが独断で攻撃した」ととる人もいれば、「レザノフが自分の責任を回避するためにわざとあいまいに指示した」と見る人もいます。
結局フヴォストフは8月8日付の命令に従い、樺太と千島列島の日本人拠点を襲撃。こうして文化露寇がスタートするのでした。
文化露寇③樺太・択捉・利尻島等を襲撃
フヴォストフたちは文化3年(1806年)9月、フリゲート艦「ユノナ号」で樺太のアニワ湾沿いにあった日本人居留地を襲撃します。まずは9月11日に約20人が上陸してアイヌ人の家から少年を捕まえました(後に開放)。12日には30人が上陸して日本人4人を捕らえて捕虜にし、米や塩、網、鉄釜、木綿の布などの物資を略奪したのち、16日には家屋に火を放っています。この襲撃事件により船による連絡手段が断たれたことで、江戸幕府に事件が伝わるのは翌年まで待たなくてはなりませんでした。
続いてフヴォストフとダヴィドフは文化4年(1807年)4月23日、それぞれユノナ号とアヴォシ号を率いて遠征し、択捉島の西にあるナイボ湾に到着。当初は日本人と友好的なやり取りをしていましたが、4月25日には5人の捕虜を捕らえて船に連れていき、日本人の住居から道具や服などを略奪の上、火を放っています。
一方の日サイドはといえば、ナイボ襲撃を知るや否や幕府の役人や盛岡藩、弘前藩らがシャナの会所にあつまって軍議しました。このとき測量調査のためにいた間宮林蔵も参加し、徹底抗戦を主張しています。幕府方の軍は300名ほどでした。
4月29日には会所に本陣を置き、本船から出てきたロシアの兵士たちと鉄砲で戦ったものの、総崩れとなってしまいます。日本軍は結局シャナを捨てることを決め、夜のうちに上官を中心に退去していくのですが、途中で箱館奉行所調役下役の戸田又太夫は自殺してしまいます。この敗走が後に幕府批判に繋がっていくことになるのです。
さて、5月1日にはロシア方40人弱が上陸していました。彼らは大筒で会所を激しく砲撃し、武器や衣類、食料に酒などを略奪し、日本人を捕らえました。略奪終了後は会所や盛岡藩陣屋などを焼き払っています。
フヴォストフは5月3日にはシャナを出発し、樺太・アニワ湾を経由して利尻島に上陸し、番屋や倉庫を焼きました。また、利尻島では総勢10名の捕虜のうち8名について、幕府への要求書を持たせたうえで釈放しています。要求書には「通商を求めたが返事がないのでこちらの『手並』を見せた」「通商の願いが叶わなければまたたくさんの船を派遣して同じことをする」と脅し文句が書かれていました。武力行使による脅迫です。加えて今年は帰国する予定であることも知らせています。
その後、フヴォストフとダヴィドフは日本を去り、6月に略奪品とともにオホーツクに帰還します。ところが待っていたのは逮捕でした。皇帝の許可なく勝手に軍事行動を実施したことが咎められ、同地の長官・ブハーリンに逮捕され、厳しい扱いを受けたのです。2人は脱走後、自らの無実とブハーリンから受けたひどい扱いを訴えて裁判の開催を求めています。その後第2次スウェーデン戦争に参加し、1809年、橋が壊れる事故で2人とも死亡しています。
ちなみにレザノフはどうしたかといえば、文化露寇の前からスペイン政府とロシアの条約締結に向けて別の任務についており、文化露寇の最中の文化4年(1807年)5月、ペテルブルクに向かってシベリアを横断している途中、クラスノヤルスクで病死しています。
文化露寇の後の日本
江戸幕府は択捉島での敗退を受け、箱館奉行が盛岡、弘前、秋田、鶴岡藩に応援要請をしており、結果として総勢3000人の兵が集まり蝦夷地を守ることになりました。加えて文化4年(1807年)末には江戸幕府がロシア船の打払令を発布。南部、津軽、仙台、会津の各藩に出兵するよう命じています。
とはいえ、択捉島でロシアに負けたことで幕府はかなり批判されることになります。これに対し幕府は国防強化に取り組みます。日本とロシアの外交問題の解決は、文化8年(1811年)に起きた、国後島に上陸したロシア軍艦長・ゴローニンが監禁される「ゴローニン事件」の終結まで続くのでした。
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- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。