有岡城の戦い(2/2)荒木村重、信長を裏切る

有岡城の戦い

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事件簿
事件名
有岡城の戦い(1578年〜1579年)
場所
兵庫県
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有岡城

有岡城

尼崎城

尼崎城

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これを迎え撃つ荒木軍は、荒木村重が本城である有岡城に入り、約1万5000の兵を場内に配置。茨木城には中川清秀が3500、高槻城には高山右近が3000の兵とともに入りました。このほか村重の息子・荒木村次は尼崎城(兵庫県尼崎市)に入っていました。

信長がしたことはまず、中川清秀と高山右近の調略でした。まずは高山右近対策。右近は熱心なキリスト教徒だったため、京都地区の布教責任者だったイタリア人宣教師・オルガンティノィーノに、右近が信長につくよう説得するよう命じました。ルイス・フロイスの『日本史』によれば、この際信長は右近が信長に従うならキリスト教を擁護し、のぞむだけの黄金と領土を与えることを約束したそうです。また、『信長公記』によればこの際信長は説得に失敗した場合は「宗門を断絶する」、つまりキリスト教徒たちを滅ぼすと脅しています。

右近が村重についた理由は、妹や息子が人質にとられていたためでした。このため人質が戻れば信長につくと約束した右近でしたが、人質はなかなか取り返せません。このため右近は人質とキリスト教徒たちを守るため、「どちらもつかない」ことを決意。領地や家族を捨て、剃髪して出家したうえで紙でできた衣のみを身に着け、オルガンティーノ達とともに信長のもとを訪れました。

右近は、「城は信長に差し出し、領地も部下もない状況になるため信長とともに村重を攻めることはできない、このため人質は処刑されないだろう」と考えたのです。この行動が功を奏し、信長は着ていた小袖や馬、摂津・芥川郡を右近に与えます。また、村重は人質を殺さず右近に返しました。

右近の調略に成功した信長。次は茨木城にこもる中川清秀を調略します。清秀の妹が古田重然(織部)に嫁いでいた縁を信長は利用し、織部を派遣して清秀と交渉したのです。信長は摂津国での12万石の領地と、信長の娘を清秀の嫡男に嫁がせることを条件に清秀に寝返りを求めます。これに乗った清秀は信長につくことを決意し茨木城を開城しました。

一説によれば、清秀はあらかじめ村重に「信長からこのような申し出を受けたのだが」と報告し、信長に帰属するよう説得。しかし、村重は「自分の志は定まっている」としたうえで、「多くのものが離反した。貴君も信長につかれるとよい」と清秀が信長に降ることを容認したそうです。清秀は村重の片腕的存在の猛将で、村重にとっては大きな痛手でしたが、これに信長は大喜びし、清秀にさまざまな品を下賜しています。

有岡城の戦い③荒木村重が少人数で尼崎城へ「脱出」

着々と荒木村重を追い詰める織田信長軍。次々と荒木方の武将を調略し、12月8日には有岡城への攻撃を本格的に開始しました。鉄砲隊や弓隊を活用しつつ総攻撃をおこない、火矢で町を放火しましたが、惣構の有岡城は堅固で落ちません。この戦いで織田軍は万見重元や2000の兵士を失う痛手を追いました。このため信長は兵糧攻めに切り替え、周囲に付城を構築させて城を取り囲みます。

一方の荒木軍は、尼崎城を拠点とした毛利氏や雑賀衆からの援助により何とか籠城を続けていました。4月には小競り合いもありましたが、基本的には籠城を続ける荒木軍。毛利氏の援軍を待っていたのですが、なかなか動かない状況に耐えかねたのか、戦闘開始から約10ヶ月後の天正7年(1579年)9月2日、村重が動きます。なんと宵闇に紛れて家臣5、6人とともに有岡城を脱出し、嫡男の荒木村次のいる尼崎城(尼崎市)へと移動したのです。

この村重の尼崎城への移動については、以前は「茶器のみをもって『逃げた』」と批判されていましたが、近年の研究によれば補給拠点かつ陸上・海上交通の要衝でもある尼崎城に移動することで、毛利氏や雑賀衆の援軍を得て劣勢な状況を立て直すことを狙ったのではと言われています。事実、村重は尼崎城についてから毛利氏に対し援軍を求める書状を送っています。これに対し織田方の動きは早く、9月12日には村重の脱出を知った織田信忠が伊丹にいた兵の半分を率いて尼崎に攻め、砦を2ヶ所築いて尼崎城に圧力をかけています。

有岡城の戦い④有岡城が落城、関係者は全員処刑

一方で荒木村重が脱出したのちの尼崎城といえば、兵たちの士気が大きく低下していました。そんなチャンスを逃さず、滝川一益が調略を仕掛けます。その結果、有岡城の西側の防衛拠点だった上臈塚砦の守将・中西新八郎が足軽大将数名とともに信長方につきました。10月15日には織田軍は総攻撃を開始し、上臈塚砦経由で城内への進入に成功。城内は焼き討ちされ、荒木軍は本丸に後退しました。

そして11月19日、織田信長は城を守っていた荒木久左衛門(池田知正)などの村重の配下達と「尼崎城と支城の花隈城を明け渡せば、それぞれの妻子を助命する」という約束を交わします。このため久左衛門達は自らの妻子を残して尼崎城に向かって出発するのですが、村重は説得を受け入れることはありませんでした。加えて説得に向かった久左衛門達も妻子や兄弟を見捨てて逃げてしまいます。

このため12月13日、織田方は尼崎近くの七松で有岡城に残っていた122名を磔にし、512名を家に押し込めて焼き殺しました。さらに村重の妻「たし」をはじめとした村重の近親者など36名を、京都の六条河原で斬首しています。こうして有岡城の戦いはかなり後味の悪い形で戦後処理を終えることになるのでした。

一連の対応について『信長公記』は、信長は哀れに思ったが、悪人を懲らしめるために有岡城の妻子や家臣たちを成敗することを決定した旨と、関係者の妻子や子どもたちの悲しい最期を記しています。そのうえで「荒木方がこの期に及んで城を明け渡さず、人質となっている妻子や肉親を見捨てて自分たちだけが助かろうとするのは前代未聞の成り行き」「気丈な武士といえども涙を流さずにはいられなかった」「これほど多数の成敗は史上初めて」と残された人々への同情たっぷりの記述が多々あります。当時の武士たちから考えると、相当あり得ないことだったでしょう。このため、後々まで荒木村重は「一族を見殺しにし妻子を見捨てた男」と非難され続けることになります。

なお、その後村重は尼崎城からも逃げて花隈城(兵庫県神戸市中央区)に入り、信長への抵抗を続けます。1580年(天正8年)の「花隈城の戦い」で織田方の池田恒興に敗れたのちは毛利氏を頼って亡命。その後隠遁生活を送り、茶人「道薫」として羽柴秀吉に仕えながら堺ですごしたのち、天正14年(1586年)に病死したと言われています。謀反の結果、自分だけが生き残る羽目になった村重。晩年の心中はいかほどのものだったのでしょうか…。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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