有岡城の戦い(1/2)荒木村重、信長を裏切る

有岡城の戦い

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事件簿
事件名
有岡城の戦い(1578年〜1579年)
場所
兵庫県
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天正6年(1578年)10月、織田信長の元に突然の知らせが届きます。「荒木村重が謀反!」信じられなかった信長は使者を差し向けますが、謀反は事実でした。こうして織田軍VS荒木軍による「有岡城の戦い」が起こります。織田軍による総攻撃の失敗により、戦いは約1年にも及ぶ長期戦になり、村重が有岡城から脱出したことで妻子たちは悲惨な最期を遂げることになります。今回はそんな有岡城の戦いについて分かりやすく解説します。

荒木村重とはどんな武将?

荒木村重はもとは摂津国(現在の大阪府北中部の大半、兵庫県南東部)の三守護と呼ばれる有力者の一人、池田勝正に仕える武将でした。池田氏から嫁を迎えますが、後に池田氏を裏切って三好氏に寝返るとともに、主君だった池田勝正を追放して池田氏の実権を掌握。元亀2年(1571年)には白井河原の戦い(大阪府茨木市・茨木川畔)で足利義昭についていた摂津三守護の一人・和田惟政を破ります。そして義昭と対立していた織田信長に接近し、信長に気に入られて仕えることになります。

18世紀に成立した軍記物語『陰徳太平記』によれば、村重と信長の初会見の際、信長はいきなり刀を抜いて饅頭を数個突き刺しました。一同が驚く中、村重は信長に近寄り、大きな口をあけて饅頭をかじろうとします。これを見た信長は村重を「日本一の器量」と賞賛し、脇差を授けたそうです。史実かどうかはともかく、村重の豪胆さがわかるエピソードですね。

村重はその後、織田軍としてさまざまな戦で活躍しました。天正元年(1573年)には信長が三好義継を破り三好宗家を滅ぼした「若江城の戦い」で武功を挙げます。1574年(天正2年)11月には摂津三守護の伊丹忠親を攻めて伊丹城を落とし、それまでいた池田城から伊丹城に移り、大改修を行うとともに有岡城に改名。有岡城を拠点に摂津国を支配することになるのです。

戦いの舞台になった「有岡城」

有岡城は史料の少なさから詳細不明の「謎の城」として知られています。わかっているのは荒木村重の大改修により「惣構(そうがまえ)」ができたこと。これは城に加えて町屋敷や町屋まで堀や土塁で取り囲み城郭全体を防御する城郭構造で、有岡城の惣構は現存する遺跡のなかで最古級のものだと言われています。

有岡城の惣構は現在のJR伊丹駅にあった主郭部を中心に南北1.7km、東西0.8km。主郭部をかこむ形で幅16m~20m、深さ7mにも及ぶ堀があったことが発掘調査などからわかっています。北・西・南にはそれぞれ砦を設け、東側は伊丹段丘の段丘崖を利用して守っていました。このほか町屋を取り囲む形で溝や堀を巡らせていたようです。

このように堅固な城を整えた荒木村重は信長配下の中でも存在感を強め、越前一向一揆の討伐や、10年にもわたる浄土真宗本願寺派との戦い・石山合戦でも活躍していきます。

天正6年(1578年)7月には羽柴秀吉率いる織田軍と、毛利氏に寝返った別所軍が戦った「三木城の戦い」に参戦しています。この戦いのさなか、天正6年10月に起きた大事件が、秀吉の後方支援をしていた村重の裏切りです。村重は突然戦線を離脱し、有岡城に戻ってしまったのです。これは織田信長に対する裏切りでした。

有岡城の戦い①荒木村重はなぜ謀反を起こしたのか?

荒木村重はなぜ突然織田信長を裏切ったのでしょうか。信長自身も「一体何の不足があったのか…」と謀反には困惑していたほど。実は村重が謀反した理由については諸説あり、真偽のほどはわかっていません。主な説については以下の通り。

  1. 部下の中川清秀が石山本願寺に兵糧を流していたため、信長に疑われるのを恐れて処罰される前に謀反に踏み切った
  2. 織田家中での地位の危うさから毛利氏についた。特に中国方面が羽柴秀吉に任された一方、自分には大きな役目は与えられず秀吉の下につかされたことが、信長を見限り毛利氏の調略を受け入れる結果となった
  3. 摂津の国衆や百姓が反信長の意向を示したこと、特に一部の百姓は本願寺と結びついており、一揆が懸念される中、信長ではなく本願寺や百姓たちと連携することを決めた

村重謀反の知らせを受けた信長は、真相を究明するために明智光秀、松井友閑、万見重元を有岡城に派遣しています。こうした使者を通して信長は「母親を人質に差し出して安土城まで弁明に来るように」と村重に求めました。また、キリシタン大名の高山右近も信長に弁明するよう村重を説得しています。

一説によれば、この際村重は謀反について、直接信長にあって弁明しようとしました。ところが家臣の中川清秀が「信長は一度裏切ったら許さないから、謀反するしかない」と諫言したことで、安土城に向かうことなく引き返したそうです(『立入左京亮入道隆佐記』)。ただ中川清秀が村重を止めようとしたという話もあり、このあたりははっきりしていません。

村重は信長と争うにあたり、本願寺や毛利氏と手を結びます。さらに長男・荒木村次に嫁いでいた明智光秀の娘を光秀のもとに返しました。

信長は再度使者を送りましたが村重は謀反をやめませんでした。ここまで信長が村重を引き戻そうとしたのは、本願寺、毛利氏、足利義昭らと争っている最中だったため。三木城の戦いのさなかでもあり、摂津国は押さえておきたかったのです。しかし、村重の裏切りを止められなかった信長は、村重討伐を決定。有岡城の戦いが始まります。

ちなみに、この時に荒木村重を説得しようと単身で有岡城を訪れたのが、黒田孝高(官兵衛)。村重により捕えられ、有岡城が落城するまでの1年超監禁されます。信長は孝高が裏切ったと考え、人質の嫡男・松寿丸(黒田長政)の殺害を羽柴秀吉に命じましたが、竹中重治(半兵衛)がこれに反対して松寿丸をかくまい、信長のもとには偽の首を差し出しました。その後重治は病で命を落としますが松寿丸は無事のまま。有岡城の落城後に助け出された孝高と無事に再会しています。

有岡城の戦い②高山右近・中川清秀の裏切り

織田信長は荒木村重討伐に向け、5万の兵とともに出陣します。『信長公記』によると、織田軍は滝川一益、明智光秀、丹羽長秀、蜂屋頼隆、氏家直通などを茨木城(大阪府茨木市)に向かわせるとともに、織田信忠・信雄・信孝ら織田家と不破直光、前田利家、佐々成政、金森長近らを高槻城(大阪府高槻市)に向かわせました。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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