キリスト教禁止令(1/2)家康の禁教令

キリスト教禁止令

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事件簿
事件名
キリスト教禁止令(1612年)
場所
東京都
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江戸城

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天文18年(1549年)にフランシスコ・ザビエルが日本に伝えたキリスト教。当初は日本のキリスト教徒(キリシタン)たちは信仰を認められており、織田信長の時代には九州や畿内を中心にキリスト教徒の数は増加していきます。ところが豊臣秀吉の時代以降は規制が厳しくなり禁教令が出されるようになります。江戸幕府後は一時規制が緩和されたものの、慶長17年(1612年)に再びキリスト教禁止令が出されます。今回は数回だされたキリスト教禁止令のうち、慶長年間に家康が出したものについて詳しく取り上げます。

秀吉がキリスト教禁止令を発布するまで

江戸時代の話に入る前に、簡単に豊臣秀吉のキリスト教禁止策について触れておきましょう。織田信長に続いて天下人となった秀吉は、当初はキリスト教を容認していました。これは、キリスト教を布教していたイエズス会が、キリスト教の布教を認めた場合に限り南蛮貿易を受け入れていたからです。

南蛮貿易によりもたらされる鉄砲や火薬は戦国武将たちに取っては喉から手が出るほど欲しいものでしたし、貿易停止中だった明(中国)産の生糸も南蛮貿易により入ってきました。中国産の生糸は日本国内での需要が高く、南蛮貿易は武将たちに多くの富をもたらしていたのです。このためキリスト教の布教は認めざるを得ない状況でした。

ところが、天正14年(1586年)7月から翌4月までの九州平定をきっかけに、秀吉はキリスト教に危機感を覚えます。九州に入った秀吉は、九州のキリシタン大名達がイエズス会に土地を寄進していたことを知り驚愕します。長崎や浦上などがイエズス会に寄進されており、日本国内にキリスト教国の植民地が誕生していたのです。

しかもキリスト教徒たちは神社仏閣を破壊し、ポルトガルに日本人を奴隷として売るなど、問題行動が多々ありました。日本人奴隷については一説によれば5万人にも上るとのこと。秀吉はこうしたキリスト教徒たちの動きに危機感を覚え、日本におけるイエズス会の代表者(準管区長)、ガスパール・コエリョを詰問します。これに対し、コエリョは「日本人を買うのは日本人が人を売るから」「日本側も人を売らないように対策すべきでは?」などと回答しました。

こうしたやり取りの結果、秀吉は天正15年(1587年)6月19日に「バテレン追放令」を出し、キリスト教の布教を禁止。宣教師たちに20日以内に国外退去するよう命じました。ただし南蛮貿易は継続しており、既存のキリスト教徒たちについては信仰を容認していたようです。

しかし、南蛮貿易を禁じなかったことから、貿易商人でもあった宣教師たちはしれっと居直り、結局はキリスト教は黙認されました。ところが文禄5年(1596年)のサン=フェリペ号事件をきっかけに秀吉はキリスト教への態度を硬化します。

事件は土佐国浦戸(現在の高知県高知市)に漂着したスペイン船「サン=フェリペ号」の船員が、「スペインはキリスト教を布教しながら各地を征服しており、日本も支配下に入るぞ」などと発言したというもの。それを聞いた秀吉は同年12月8日にキリスト教禁教令を出し、当時京都などで活発に布教活動を行っていたフランシスコ会の宣教師と日本のキリスト教徒など計26人を捕縛。市中引き回しにしたのちに長崎に輸送し、処刑しています(日本二十六聖人殉教)。

その後秀吉サン=フェリペ号の積み荷を没収。スペイン側からの抗議や積み荷の返還要求などに対し「日本のルールだから」と譲歩することはありませんでした。ちなみに押収した積み荷は朝鮮出兵の資金などに使われたそうです。

最初はキリスト教を「黙認」した家康

豊臣秀吉の次に政権を握り、江戸幕府を開いた徳川家康。当初はキリスト教を黙認していました。これはポルトガルやスペインとの南蛮貿易を重要視していたためでした。日本にはイエズス会、フランシスコ会に加え、ドミニコ会やアウグスティノ会などさまざまな会派の宣教師が訪れ、長崎や天草、有馬や京都などでキリスト教徒たちが急増。最盛期には国内のキリスト教徒の数は約37万人に膨れあがりました。

そんななか慶長14年(1610年)12月に起きたのがノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件(マードレ・デ・デウス号事件とも)です。きっかけは慶長13年(1608年)10月にポルトガル領マカオで起きた、日本の朱印船とポルトガル船のもめ事でした。朱印船の船員がマカオ市内で暴力行為におよびポルトガル人数名を殺傷。マカオ当局が動いた結果、日本人約40人が殺害されました。このときマカオ側の指揮者(総司令)がアンドレ・ペソアです。

ペソアは慶長14年(1609年)に来日して徳川家康に直接事情を説明しようとしましたが、結局果たせませんでした。そんななか、朱印船を派遣していた肥前日野江藩(後の島原藩・長崎県島原周辺)藩主の有馬晴信がペソアの報復を家康に願い出ます。加えて、家康がもともと欲しがっていた伽羅木を入手するための朱印船の派遣許可も求めました。

家康は当時スペインやオランダとの交易が活発化していたこともあり、万が一ポルトガルとの南蛮貿易がストップしても問題ないと判断。報復行為と朱印船の派遣を許可します。その上で幕府からの監視役として岡本大八を派遣しました。

こうした動きを察知したペソアは逃げようと出航の準備を始めますが、晴信は長崎奉行の長谷川藤広とともに船を砲撃。4日4晩にわたり続いた戦闘の後、船が炎上したことでペソアは船の火薬庫に火を放ち、船を沈めて命を絶ちました。なお、ポルトガルとの交易はこの事件のせいでしばらくストップしますが、両国の交渉の結果、慶長16年(1611年)から再開しています。

キリスト教禁教令の原因となった「岡本大八事件」

ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件によりポルトガルに復讐を果たした有馬晴信。晴信は事件を成功させることで得られるであろう恩賞として、鍋島領となっていた旧領の回復を期待していました。しかも、伽羅木も無事入手して家康に届けているので、家康の心証もばっちりのはずです。とはいえ晴信は焦ったのか、同じく家康から伽羅木入手を命じられていた長谷川藤広を通さずに香木を家康に渡してしまったため、両者の関係は悪化してしまうのですが…。

そんな恩賞を期待する晴信に対し、「うまくいっておきますから、わかるでしょ?」と賄賂を要求したのが岡本大八。家康の朱印状まで偽装して晴信から約6000両をだまし取りました。ちなみに大八は晴信と同じキリスト教徒。晴信は親近感を覚えていたのか、疑いもせずに賄賂を払いました。

ところがその後全く音沙汰がなかったため、晴信は岡本大八の主君である本多正純に直談判したところ事態が発覚。大八は容疑を否認し続けましたが拷問により罪を告白し、最終的には火刑にされました。

ところがこの時の拷問で大八は「晴信は長谷川藤広を恨んでおり、暗殺を企てている」と話密告しました。晴信が藤広と仲たがいした後に吐いた暴言を膨らましてのことだったようですが、晴信にも後ろめたいことがあったようです。とはいえこの大八の余計な一言で、藤広暗殺計画を疑われた晴信はとばっちりの結果、甲斐国郡内への流罪と島原4万石の改易・没収を命じられ、さらにその後切腹まで言い渡されました。キリスト教徒で自殺ができない晴信は家臣に自らの首を落とさせたそうです。

この事件の首謀者・被害者はともにキリスト教徒。さらに岡本大八事件のきっかけとなった
ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件もキリスト教徒が関係しています。こうした立て続けに起きたキリスト教徒による事件は幕府のキリスト教政策に大きな影響を与えたのです。

家康はなぜキリスト教禁止令を出したのか

岡本大八事件をきっかけに、江戸幕府は慶長17年(1612年)3月21日、キリスト教禁止令を出しました。徳川家康は慶長10年(1605年)に息子の徳川秀忠に将軍の座を譲っていましたが、大御所として実権を握っていました。

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関係する人物
栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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