中富川の戦い(1/2)長曾我部元親、阿波を制覇
中富川の戦い
四国の戦国武将といえばまず思い浮かぶのが土佐国(現高知県)の長宗我部元親ではないでしょうか。そんな元親が阿波国(徳島県)を支配する三好氏を下して阿波国をほぼ制圧したのが、天正10年(1582年)8月から9月にかけて行われた「中富川の戦い」です。四国征伐寸前だった織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれたことで息を吹き返した元親は、阿波国を皮切りに四国制覇に向けて走り始めます。今回は元親の四国制覇に向けた最初の大戦ともいえる、中富川の戦いについて解説します。
土佐を治めた長宗我部氏
中富川の戦いを解説する前に、中富川の戦いの主役・土佐国の長宗我部氏と阿波国の三好氏について解説しておきます。まずは長宗我部氏についてですが、中世頃から土佐にいた豪族(国人領主)で、有力豪族「土佐七雄」の一氏として知られていました。戦国時代には一時勢力を弱めますが、長宗我部元親の父・長宗我部国親が復興。21代目の元親の時代に最盛期を迎えています。
元親は子どもの頃「姫若子」と呼ばれるほど色白でおとなしい人物だったとのこと。家臣から侮られていたようですが、22歳で初陣を務めた永禄3年(1560年)の長浜の戦い(土佐郡朝倉城攻め)で武名を高め、家督をついだ後は土佐統一に向けて次々と周辺勢力を下していきます。
この時に大活躍したのが、親の国親が考案したという「一領具足」。半農半兵の兵士を指し、普段は農作業をしますが、領主が命じると一領、つまり一揃いの具足(武具)を持って兵士として戦うことが名の由来です。
元親は天正3年(1575年)、土佐一条氏を四万十川の戦い(渡川の戦い)で下し、土佐を統一します。そして同年、または翌天正4年(1576年)から阿波国に侵攻。四国を統一しようと動き出すのです。
阿波から畿内へ!「三好政権」を樹立した三好氏
一方、阿波国の三好氏は鎌倉時代後期にはすでに阿波で活動しており、室町時代には阿波守護細川氏の守護代、つまり守護職の代行として活躍しました。室町末期には三好長慶が細川政権を打倒し、将軍を京から追いやり畿内を制圧して「三好政権」を樹立。長慶は現在では信長の前の「最初の天下人」として評価されています。
そんな長慶の後を若くして継いだ三好義継は、三好長逸・三好宗渭・岩成友通ら三好三人衆や三好氏の重臣・松永久秀らの後見を受けて連立政権を樹立します。永禄8年(1565年)5月の永禄の変では、室町幕府13代将軍の足利義輝を殺害するという大事件を起こしました。
その後、三好氏と松永氏が対立したことで三好政権は崩壊します。後に三好氏の中でも三好三人衆と三好義継が対立することになり、同族内での争いが続くなか、織田信長が台頭して三好氏と争います。このあたりは敵味方がころころ変わるのでややこしいのですが、最終的には義継は信長と敵対した結果、天正元年(1573年)の若江城(大阪府東大阪市)の戦いに敗れて自害。これにより三好本家は滅亡してしまいます。
一方、三好本家から阿波の統治を任されていた阿波三好氏は、永禄5年(1562年)に父・三好実休の後を継いだ8歳の三好長治が、重臣・篠原長房の補佐を受けながら阿波を治めていました。ところがやがて2人の仲は悪化し、長治は元亀3年(1572年)の上桜城の戦いで長房を討伐してしまいます。そして暴君化して香川氏や香西氏の離反を招いたほか、領民に法華宗の改宗を強要したことで阿波国中から嫌われることに。乱れた阿波国は長宗我部氏の侵入を許すことになるのです。長治自身は天正5年(1577年)、荒田野の戦いで細川真之に敗れて自害しており、これにより阿波三好家も滅亡します。
全ての三好氏が滅亡したかと思いきや、四国で唯一残ったのが讃岐国(香川県)の十河存保(そごうまさやす)。三好実休の次男で阿波三好家滅亡後に勝瑞城(徳島県板野郡藍住町)に入り、三好氏の復権に務めます。そして織田信長について長宗我部元親と争うようになるのです。
また、畿内では三好本家が滅亡した後も、一門の三好康長が信長への抵抗を続けていました。信長と敵対する本願寺派と通じて戦いを続けていましたが、信長の猛攻に耐え切れず天正3年(1575年)4月、松井友閑を通じて信長に降伏しました。その後、四国への伝手を評価されてか、康長は信長政権で重用されていくことになります。
長宗我部氏・三好氏・織田信長の関係は?
土佐を統一した後、長宗我部元親は明智光秀を通じて織田信長に接近し、同盟を結びます。なぜ光秀?と思う方もいらっしゃるかと思いますが、元親の正室は土岐氏の出身で光秀の重臣・斎藤利三の異母妹(※諸説あり)でした。このため元親と光秀には交流があり、光秀は元親と信長を結ぶパイプ役を果たしていたのです。
信長は三好氏と敵対していたこともあり、同盟の際に元親に対し「四国は元親の切り取り次第」という朱印状を発行したと言われています。さらに信長は元親の長男の烏帽子親を引き受けており、元親の息子は信長の一字を貰い「信親」と名付けられました。
このように当初は信長と元親の関係は良好なものでした。ところが天正3年(1575年)、先に述べた通り三好康長が信長に降伏し、信長政権で重用されはじめると関係は徐々に悪化。そして天正9年(1581年)6月、信長は長宗我部氏に対し、三好氏と協力するよう命じます。
加えて長宗我部氏の四国領有を土佐一国と阿波国の南半分に限定します。三好氏におもねる信長に不信感を覚えていた元親はこの決定に対し、大反発しました。切り取り次第という朱印状はいったい何だったのか。しかも自力で攻めとった土地なのにどうこう言われる筋合いはない!そんなことを思ったのではないでしょうか。
信長にとっては命令を聞かない長宗我部氏は討伐対象。四国遠征を決定します。総大将は三男の織田信孝で、このほかに丹波長秀、蜂谷頼隆、津田信澄も参加予定でした。天正10年(1582年)5月7日、信長は信孝に対し、信孝を三好康長の養子にした上で信孝に讃岐国、康長に阿波国を与える計画を説明します。なお、伊予国(愛媛県)と土佐国については信長が淡路に出陣した際に発表するとしていました。
この時点で三好康長は先発隊として勝瑞城に到着しており、一宮城(徳島県徳島市一宮町)や夷山城(徳島県徳島市八万町)を攻略済みでした。信長の命を受けた織田信孝は5月29日には住吉に着陣し、四国に向けて出港の準備を進めます。加えて丹波長秀と津田信澄は摂津大坂、蜂谷頼隆は和泉岸和田に兵を集結させました。総勢1万4000の本軍は6月2日に四国に向かって出発する予定でした。
長宗我部氏にとっては大ピンチ…!というところで6月2日早朝に起こったのが明智光秀による本能寺の変だったのです。
中富川の戦い①本能寺の変を機に長宗我部が阿波攻め
天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で、長宗我部元親率いる長宗我部氏は窮地を脱します。そもそもこの本能寺の変を起こしたのは元親と親交の深かった明智光秀。本能寺の変の一因として、信長の四国征伐があがっているほどです。
本能寺の変の知らせを受けた三好康長は後ろ盾をなくしたことから勝瑞城を捨てて阿波を去り、河内(大阪府東部)に戻りました。一方の長宗我部氏はといえば、元親の嫡男・信親が「このすきに勝瑞城を攻略しよう」と作戦を練り、叔父の香宗我部親泰を頼って海部(徳島県海部郡)に到着。元親の後援を待ちますが、元親はこれにストップをかけました。
寛永8年(1631年)に長宗我部氏の家臣だった高島正重が著した『元親記』によれば、この時元親は息子の動きを「若者にとってはもっともの行動」としつつ、戦による兵士・領民たちの疲労などを踏まえ、十分に準備をした上で8月に攻めるべきと説いて信親を岡豊城(高知県南国市)に戻しています。
元親は岡豊城内で阿波攻撃に関する軍議を開きます。元親の家来だった立石正賀が万治2年(1659年)に書いたとされる『長元記(長元物語)』によれば、家老や城侍たちと一領(一両)具足を別室に招集して意見を聞いたとのこと。この際、家老・城侍達は三好氏はいまだに大きな勢力であるとの見方を示し、長期的に消耗させる持久戦を提案しました。その作戦が稲や麦などの秋の収穫物をなぎ倒して食糧を台無しにすることでした。
一方の一領具足勢はといえば「のんびりしていると阿波国ばかりか土佐国まで三好氏に取られてしまう」と早期決戦を提案。しかも三好康長の養子は豊臣秀吉の甥・秀次(当時は三好信吉)であることから、明智光秀を討った秀吉が三好氏に加勢する可能性を指摘。そうなる前に阿波国を治める十河存保を討伐して阿波国を奪取したほうがいい、と訴えたのです。
元親が選んだのは一領具足の策でした。元親はさらに具体的な策を求め、一領具足達は中富川での決戦を提案します。こうして中富川での戦いに向け、元親は兵を集めます。総力戦との考えだったのでしょう、この時元親は「15歳以上60歳以下であれば、次男だろうが三男だろうが領地がなかろうが誰でも取り立てる」と布告を出しています。
信親や弟の香宗我部親泰、家来たちを一堂に集めて岡豊城を出発。8月27日には吉野川南岸の中島に到着しました。この時点で兵は何と2万3000に膨れ上がっていました。元親は軍を3つに分け、親泰が先鋒として3000の兵と共に中富川の南岸に着陣します。
一方の十河存保は信長の庇護を失った時点で一宮城と夷山城(ともに徳島県徳島市)を放棄し、勝瑞城に兵力を集中させて守りを固めていました。その兵力は約5000。さらに勝興寺に本陣を置き、中富川の岸に土塁を築いて鉄砲隊を配置し、長宗我部軍を迎え撃つ準備をします。そして8月28日、中富川の戦いが始まります。
中富川の戦い②国の運命がかかった激戦
8月28日、中富川を挟んで対峙する長宗我部軍と十河軍(三好軍)。中富川の戦いの始まりです。後のない十河存保に、ここで三好勢を叩いておかないと反撃され、危機的な状況に陥る可能性のある長宗我部軍。双方跡がない状態の中での戦いでした。
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。