会津征伐(2/2)関ヶ原のきっかけとなった幻の戦い
会津征伐
上杉討伐の背景に関しては、家康が政権を奪取するために言いがかりをつけて実施したとも、逆に上杉側が謀反を起こすために仕組んだ罠だったとも言われています。そもそも家康は前田氏のように上杉氏に人質を出してさっと臣従してもらいたかったので軍事行動は不本意だったという説や、石田三成と景勝・兼続が協力して家康を討つための策だったというドラマティックな説(情報共有の方法がないため現在の学説では否定的)まであり、どれが正しいのかは歴史の闇の中です…。
が、ともかく家康は会津征伐を決定。先鋒として福島正則ら豊臣恩顧の大名や井伊直政、本多忠勝などを任命し、6月16日に大阪城から出陣し、伏見城を経て江戸に向かいました。7月1日(2日とも)には江戸城に入り、軍備を整えると7月19日に徳川秀忠らが会津へと出陣。家康も追って21日に会津へと出発します。
一方の上杉景勝も家康を迎え撃とうと準備を進めます。背後には徳川方についた出羽国(秋田・山形県)の最上義光もいるので油断できません。一説によれば、直江兼続は常陸国の佐竹氏と組んで白河口(福島県白河市)付近で家康を挟み撃ちする作戦を検討していたようですが、はっきりとしたことはわかっていません。
幻に終わった会津征伐
徐々に会津に向かって兵を進める徳川家康。そんな家康のもとに7月下旬、石田三成挙兵の知らせが届きます。この知らせを受けて家康は7月25日、下野(栃木県)の小山で軍議を開きます。それが「小山評定」です。
小山評定の争点はただ1つ。「上杉景勝を討つか、戻って石田三成を討つか」でした。この時家康とともにいた武将たちは多くが豊臣恩顧の武将たち。彼らの妻子を三成は人質に取っていました。
会議の流れを変えたのは秀吉の子飼いだった福島正則。軍務を担当する武断派だった正則は、政務を担当する文治派だった石田三成と敵対しており、朝鮮出兵の際にもいざこざを起こしていました。この正則が家康に味方をして三成を討つことを宣言し、掛川城主の山内一豊も城を明け渡し、人質を出して味方についたことで東軍は反三成で結束。景勝への押さえとして結城秀康の軍を宇都宮に残しつつ、西に引き返すことが決定しました。こうして会津征伐は戦闘がおこらないまま中止となったのです。
なお、この小山評定も実在していなかったのではという存否論争が長きにわたって行われており、こちらも根拠となる現存史料が「写し」しかないことが要因のひとつとなっています。
さて、引き返す徳川軍を見た上杉方はどういう反応をしたかというと、挟み撃ちのチャンスにもかかわらず、追撃せずにそのまま逃がしました。その理由として有名なのが「背後を攻めるのは卑怯で上杉の義に反する」というもの。武門のプライドの高さがうかがわれる理由ですが、現在は徳川方についた最上義光・伊達政宗らを警戒して動けなかったという説が有力です。ここで上杉の武の力に任せて徳川軍を追撃していたら、ひょっとしたら未来は変わっていたのかもしれませんが…。
こうして景勝は徳川軍を追撃することなく、最上攻めを決意。こうして「北の関ケ原」こと慶長出羽合戦が起こり、上杉軍約2万7000対最上軍7000で激戦が繰り広げられることになるのです。
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- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。