会津征伐(1/2)関ヶ原のきっかけとなった幻の戦い
会津征伐
慶長5年(1600年)6月、徳川家康が謀反の疑いから会津(現福島県西部など)の上杉景勝を討伐しようと動き出しました。会津征伐(上杉征伐)と呼ばれるこの征伐、途中で大坂で石田三成たち西軍勢が反家康を掲げて挙兵したことで、結局は中止となりました。その後は皆様ご存じの通り、関ヶ原の戦いで家康が勝利して天下を取るのですが、今回はそんな幻に終わった会津征伐について、わかりやすく解説していきます。
秀吉の死で家康台頭、前田を下して実質上のトップに
豊臣秀吉が慶長3年(1598年)8月に死んだ後、政権を支えていたのが「五大老・五奉行」達でした。秀吉が晩年、まだ幼い跡継ぎ・豊臣秀頼(慶長3年当時わずか6歳)を支えて政権を安定させるために作った制度で、五大老は徳川家康、毛利輝元、前田利家(死後は息子の前田利長)、宇喜多秀家、小早川隆景(死後は上杉景勝)、五奉行は石田三成、浅野長政、長束正家、前田玄以、増田長盛。この10人が政権運営の核となっていました。
五大老と五奉行の違いは、五大老は10万石以上の有力大名からなる重要な政務を決定する政権の最高機関であること。一方の五奉行は石田三成をはじめ秀吉の家来として実務を担当していた人々が、司法、土木、行政、宗教、財政の実務をそれぞれ担当していました。
これで豊臣政権は安泰と思いきや、家康が秀吉時代に決定したことを破り、自分の利を得て力をつけようと動き始めます。秀吉の決めた「大名同氏の勝手な婚姻を禁じる」というルールを破り、伊達政宗の長女と六男の松平忠輝を無断で縁組させたほか、自分の養女を加藤清正と、福島正則の養子である福島正之にそれぞれ嫁がせたのです。慶長4年(1599年)正月にこのことが発覚した際、前田利家や石田三成などが家康を大批判。特に利家は秀吉の死後、家康と対抗する勢力のトップだっただけに家康を牽制しようとします。
ところが慶長4年(1599年)閏3月3日に利家は病没してしまい、家康を止められるものがいなくなってしまいます。利家の跡を継いだ前田利長といえば、利家の「秀頼様の後見役として3年は大坂におり、加賀に戻らないように」との遺言を守らず、家康の勧めもあって8月には加賀に帰国してしまいます。
とはいえ、利長は9月に家康が重陽の節句の挨拶のために大坂城を訪れる際に家康を暗殺しようと考えていたようです。これは結局家康にばれてしまいました。なお、この計画は利長を追い落とすために家康側が仕組んだ嘘だったとも言われています。
家康は暗殺計画を機に、「家康は3年間在京せよ」という秀吉の遺言を無視して大坂城の西の丸に居座って政務をとり、ますます勢力を強めていきます。加えて暗殺の首謀者である利長に対しては加賀征伐を計画。とはいえこちらは利長が聖母の芳春院(まつ)を江戸に人質として差し出したことなどにより出兵は取りやめています。「加賀征伐は噂に過ぎなかった」という研究者の説もありますが、この時期に徳川・前田間で何らかの対立があったことは確かなようです。
上杉景勝が謀反の準備?家康が取った対策は
大坂で政争が続くなか、会津120万石の上杉景勝は領国の整備に奔走していました。景勝は豊臣秀吉と友好関係にあり、慶長3年(1598年)に秀吉により越後・佐渡(新潟県)から会津に転封になったのも、奥州の伊達政宗と関東の徳川家康へのけん制、東北・関東への押さえとしての役割があったようです。ちなみに転封の際に活躍したのが直江兼続と石田三成のコンビ。家臣が三成と懇意にしていたことも、景勝が西軍についた一因でした。
秀吉の葬儀に参加した後は会津に戻って引きこもり、道をはじめインフラ整備にいそしむ景勝。慶長5年(1600年)からは会津の新たな拠点として神指城(福島県会津若松市)の築城を開始します。これは、景勝がもともとあった若松城(同市)が山から近いため守りにくく、城下町を拡大しにくいことなどを懸念したためで、周囲が開けて川の水を活用できる神指原に築城し、同地を一大拠点として発展させようと考えていたようです。一説によればなんと約8万人を導入しての大規模工事だったとか。領内整備の一環として開始したものでしたが、はたして将来家康と戦う可能性を見据えての動きだったのでしょうか…?
こうした景勝の動きは元上杉氏の領国・越後国領主の堀秀治により家康に報告されていました。秀治は景勝に代わって越後に入ったものの、景勝が越後から去る際、農民達と本来残すべき年貢米を持ち去ってしまったことで困窮。人手不足で田畑は荒れ、一人当たりの百姓の負担が増えたことで一揆が発生。会津の領民たちは以前の領主・景勝を慕うので、秀治は「いつ謀反を起こされるか」とおびえていました。このため、幾度となく家康に景勝の動きを報告し、不満を訴えていたのです。これをうけ、家康は景勝に上洛を要請しますが、景勝はなかなか上洛しません。
加えて景勝の配下・藤田信吉が景勝を裏切り家康のもとに出奔してしまいます。信吉はもとは武田氏に仕えていましたが、その後上杉氏に入って出世。慶長5年(1600年)1月、景勝の代理として家康に新年の祝賀を述べており、そのとき家康から銀子や刀などをもらっていました。ところがこの厚遇が上杉内部で問題となり、家康を敵視する兼続からは「家康のスパイになったのでは」と疑いをかけられる始末。このため出奔し、家康に「上杉は謀反の動きあり」と伝えたのです。
慶長5年(1600年)4月、家康は景勝に対し、上洛して城の新築等の動きについて説明するよう要求。直江兼続と親交のあった京都・豊光寺の僧侶・西笑承兌に、上杉景勝への疑念を書状にして兼続宛に送らせました。
書状の内容としては、景勝が上洛しないことを家康が不審に思っており、謀反の意がないのであればその旨を誓書として差し出してほしいと考えていること、神指城の建築や白河口への道を整備し、会津に武器を集めたり道や橋を作ったりしていることが問題視されていること、堀秀治の家老・堀直政が景勝について訴えているのでしっかり謝罪したほうがいい、とにかく今すぐ景勝を上洛させて直接釈明したほうがいい、という内容でした。
関ヶ原の戦いのきっかけ?皮肉たっぷりの「直江状」
西笑承兌の書状に対し、直江兼続が返信したとされる書状が、4月14日付の「直江状」です。堀秀治の訴えを否定するとともに、上杉景勝が上洛できない理由を説明したものですが、皮肉たっぷりの内容で挑発的な文章に徳川家康が激怒し、会津征伐に踏み切ったとされています。
ところが直江状の原本は伝わっておらず、書かれている内容の表現などから偽書説や後世の改ざん説があり、今でも論争のもとになっています。研究によれば20種類以上の写しがあり、内容も少しずつ異なります。最古の直江状の写しとされるのは寛永17年(1640年)のもので、16か条からなります。
内容を要約しつつ解説すると、まずは謀反の噂について「京都と伏見の間でもあらぬ噂が飛び交うのだから遠方かつ若輩の景勝には似合いの噂だと思って心配していない」とコメント。しょせんは噂だと一蹴しています。
上洛が遅れていることについては、そもそも景勝は慶長3年の国替えの後まもなく豊臣秀吉が亡くなったことで上洛し、慶長4年(1599年)9月に帰国したばかりであることを説明。慶長5年(1600年)正月に上洛するというのはスケジュール的にハードですし「いつ会津の統治をしろというのだ」という話だとしています。加えて会津は雪がひどいので10月から3月までは上洛が難しいことを説明しています。
起請文については今まで何度も出して反古になっているから必要ないとし、「讒言の真偽を糾明せずに景勝に謀反の疑いをかけるのは心外」と、堀秀治らと家康を非難。加えて家康が讒言の審議を糾明せずに理由なく信じ、景勝に謀反の意があると主張し、反意がないなら上洛しろということについては「乳飲み子のような扱いでどうすることもできない」と皮肉たっぷりにコメント。反意の噂が広まるなかうっかり上洛しては「上杉家累代の律義の名と弓矢の誇りまでも失う」「こんな状況で上洛しても家康からは裏表あるものだと裁定される」とし、再三讒言が究明されないと上洛はしないと強調したうえで、「景勝が間違っているか家康が裏表あるのかは世の中の沙汰次第」としています。
謀反を起こすかどうかについては「秀吉の遺言に背き、秀頼を見放し、家康との関係が悪くなったからといってこちらから手を出しては、自分たちが天下を取ったとしても悪人の名を逃れられない」から謀反などしない、と説明しています。
武器を集めていることについては「上方の武士は茶碗などの『人たらしの道具』を所持しているが、田舎武士は鉄砲などの武器を用意するもの。国の風俗が違うから不審に思わないように」と、やはり皮肉交じりに説明しています。領国内の道の整備については、人の往来に不便がないようにするための当然のことであり「騒ぐ方がおかしい」とバッサリ。「知り尽くした越後国にいる堀秀治を踏み潰すなんて手間ではない」とまで書いています。加えて「全方面で道路を整備しているが、文句が出ているのは越後の堀氏だけ」としています。
まとめると「疑われている中上洛しても無駄だから、讒言の真偽を確認してから上洛要請をするように。そうなったら上洛する」という内容。とにかく堀秀治と家老の堀直政へのヘイトが激しく、上杉氏VS堀氏の対立構造が書状から透けて見えるようです。
家康が会津征伐を決意
直江状を読んだ徳川家康は目上の者に対する書状ではない、無礼である、と激怒し、その日のうちに会津征伐を決意したとされています。直江状については先に挙げた通り真偽のほどは定かではありませんが、『徳川実紀』によれば家康の上洛要請に対し、上杉方が何らかの返書を行い、それを見た家康が「傲慢無礼」と激怒し会津討伐を決定したと書かれています。
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。