上田合戦(2/2)真田の勇ここにあり!対徳川で徹底抗戦
上田合戦
その後、家康は軍を2つに分け、自らは本隊や豊臣恩顧の大名たちの軍勢とともに江戸に戻り、東海道を進んで西上します。一方、嫡男の徳川秀忠には榊原康政や本多正信、大久保忠隣といった徳川譜代ら3万8000の軍勢とともに宇都宮で上杉氏に備え、信濃国を平定して中山道経由で西に向かうよう命じたのです。秀忠軍は8月24日に宇都宮を出発し、9月2日に小諸城に着陣。上田城に降伏を勧告し、使者として真田信之を送りました。
さて、ここからは当時の資料がほぼないため、後世の軍記物などをもとに第二次上田合戦について解説します。秀忠軍に対し、昌幸はまず降伏を受け入れたかと見せかけますが、使者との交渉中に突然態度を一変させて上田城に籠城する旨を告げます。昌幸は秀忠軍の足止めを狙っていたのです。西に向かう家康本隊との合流が遅くなればなるほど、西軍にとっては有利になる、と考えたのでしょう。
こうした挑発行為に秀忠は腹を立てますが、前回上田城をうかつに攻めたせいで徳川軍は敗れました。そこで今回はあらかじめ支城の戸石城を落としてから上田城を攻めることに。ここで真田信繁(弟)が守る城を真田信之(兄)が攻めるという事態が発生します。兄弟対決になるかと思いきや、信繁は無血開城して兵を上田城に引きました。
第二次上田合戦③本当は戦わなかった?
9月4日、徳川秀忠軍はいよいよ上田城を攻め始めました。まずは上田城下で刈田(田んぼの稲の刈り取り)を開始。食料を刈り取られてしまうのを阻止しようと上田城から真田軍が出てきたところを叩く作戦でした。真田軍は刈田を阻止するために出撃しますが、秀忠軍の反撃にあい上田城に下がります。追撃する秀忠軍。しかし、これは昌幸の仕掛けた罠でした。秀忠軍が城のぎりぎりまで近づくのを待ち、弓矢で反撃しました。
さらにひるんだ秀忠軍を城の主力部隊がたたき、城下ではゲリラ戦を展開。秀忠軍を神川の近くまで誘導したのちは、せき止めていた神川を開放して溢れさせ、秀忠軍を溺れさせます。秀忠軍は多くの死者を出し、小諸城に退却しました。この辺りは第一次上田合戦と同じ動きですね。
ところが、この第二次上田合戦は小競り合い程度のものでしかなかった、という説が出てきています。ほぼ資料が残っておらず、徳川方の武将が勝手に上田城を攻撃したという理由で罰せられている記録などから、大規模な戦闘にならなかったという説が出てきています。
第二次上田合戦④秀忠、関ヶ原に大遅刻
上田城を攻める徳川秀忠のもとに、9月8日(9日とも)に家康から「早く西に来い!」と早急に上洛するよう命令が届きます。家康の命令は絶対ですから、上田城攻略はあきらめざるを得ません。しかも手紙は大雨のせいで通常よりかなり遅れて届く始末。急がねば…秀忠の脳裏に家康の怒りの声が聞こえていたことでしょう。
秀忠軍は決死の思いで関ヶ原に向かいますが、その途上、9月17日に「関ヶ原で東軍勝利」の知らせを聞いて愕然とします。そう、関ヶ原の戦いに間に合わなかったのです。家康と合流できたのは9月20日、大津(滋賀県大津市)のことでしたが、家康は面会を拒否。遅参に加えて兵を無駄に急がせて消耗させたことも怒りの一因でした。家康は「後継者は別のものにしたほうが良いのでは?」と一時悩んだようですが、結局秀忠は徳川幕府第2代将軍に就任しています。
第二次上田合戦④後世まで続いた「真田」
第二次上田合戦の結果、西軍についた真田昌幸・信繁たちは本来死罪でした。しかし、徳川方の真田信之の助命嘆願で生き延び、数人の家来たちなどとともに高野山へ流罪となりました。昌幸は慶長16年(1611年)6月4日、65歳で病没。残された信繁は14年間九度山(和歌山県伊都郡九度山町)ですごしたのち、大坂冬の陣・夏の陣に参戦して討ち死にしました。一方、真田信之は上田3万8000石、沼田2万7000石、加増3万石で合計9万5000石の大名まで上り詰め、初代上田藩主として徳川政権下で辣腕を振るっていくことになります。
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- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。