二の丸騒動(2/2)江戸時代後期に起きた諏訪藩のお家騒動
二の丸騒動
さらに、跡継ぎ争いを心配した千野兵庫が藩主・忠厚の了解を得ないまま江戸にやってきます。忠厚に直訴しようと考えたのですが、この「藩主の了解を得ないまま」というのが大問題。忠厚の不興を勝った兵庫は、忠厚に会えないまま4月に国元に追い返され、無断で江戸に来たことを理由に、家老罷免の上、押込(一定期間外出禁止の謹慎)という処罰を受けます。一説によれば切腹の命まで出ていたようです。
実は兵庫達の処罰は助左衛門をはじめとする二の丸派の側近たちの謀略によるものでした。二の丸派は兵庫達を「謀反を企てている」などと中傷して、政治の舞台から追い落としたのです。それをそのまま受け入れてしまう忠厚もどうかと思いますが、僅かながら残った当時の文献からは忠厚の考えははっきりわかっていません。というわけで、兵庫達に代わって諏訪図書・大助親子と助左衛門たち二の丸派が政権に返り咲きます。
二の丸騒動④三の丸派・千野兵庫の逆襲!
藩主・忠厚の不興を買って国元に帰った千野兵庫ですが、もちろんそのまま諦めるわけがありません。家老を解任されて隠居に追い込まれつつも逆襲の機会を狙い、手紙を送って協力者を増やし力を蓄えました。そのうちの一人が正室の甥にあたる斎藤三右衛門。このほか兵庫は忍びにまで協力を依頼しており、伝説では秘薬で透明になって脱出しています。
そして8月、宵闇に紛れて監視の目をかいくぐりつつ再び江戸へ。親戚を巻き込みつつ藩主と交渉する考えで、藩主の妹婿にあたる三河国西尾藩(愛知県西尾市)の第2代藩主・松平和泉守乗完に協力を求めました。兵庫は乗完の屋敷を訪れて相談を重ねますが、兵庫が江戸に来たということを知った信濃諏訪藩の江戸藩邸が乗完に引き渡しを求めてきます。
乗完は諏訪一族や親族などと相談し、忠厚の隠居と長子・軍次郎の家督相続、加えて奸臣たちの排除を訴えますが、忠厚は従いません。しかも、この時点で二の丸派の進言により、長男を推挙していた正室とは離縁済みなので、義理の父・阿部正福のことなんぞ知ったことないわ、という…。
兵庫の身柄引き渡しVS忠厚の隠居・軍次郎の嫡子化が平行線をたどる中。次に動いたのは諏訪大助と渡辺助左衛門でした。両名はなぜか9月初めに突然国元に戻っています。理由は定かではありませんが、兵庫の引き渡しの条件の一つが、両名の排除だったからだとされています。
しかし、2名はただ国元に帰ったのではありません。国元の二の丸派と結託し、「政権を握るのは二の丸派がいいのか三の丸派がいいのか」を家中の人々にそれぞれ聞き、二の丸派の勢力拡大と結束を図ったのです。当然三の丸派は反発し、結束して反旗を翻すとともに、派閥の代表的存在が次々と江戸を訪れて兵庫のサポートに回ります。
二の丸騒動⑤奸臣、死す
江戸で次第に争いが激しくなっていくなか、自身の隠居と軍次郎の嫡子化をなかなか認めない諏訪忠厚。実際のところ、軍次郎の嫡子化は前向きに検討されていたようですが、忠厚の隠居がどうも進まなかったようです。
次に動いたのは松平乗完でした。天明元年(1781年)9月28日に「らちが明かない」と諏訪家との交渉を打ち切り、関係を断絶するとともに幕府にその旨を届け出ることを宣言したのです。これを受けた千野兵庫は信濃諏訪藩江戸屋敷の留守居役を呼び出し、「このままにするなら幕府に訴える!そうすると諏訪家に傷がつくがどうするんだ!」と強く責めたてました。それを聞いて焦った留守居役は、すぐに家臣らに事情を説明するとともに忠厚の側近で二の丸派のメンバーたちを逮捕。忠厚の隠居と軍次郎の跡継ぎを強行して決定します。加えて国元では諏訪大助・渡辺助左衛門も逮捕しました。
そして天明元年12月(1782年1月)に忠厚は隠居し、軍次郎が諏訪忠粛として第7代藩主に就任。この結果兵庫は再び家老に返り咲きます。一方二の丸派はといえば、天明3年(1783年)7月に処罰が決定。諏訪大助が切腹、渡辺助左衛門が打ち首、諏訪図書は永牢(無期限の入牢刑)。以前の罰とは比べ物にならないほど重い刑が執行されたのは、二度あることは三度あると言わんばかりに、諏訪図書・大助と渡辺助左衛門が悪だくみをしないようにした、ということなのでしょうか…。何はともあれ、こうして三の丸派が政権を得る形で二の丸騒動は終結を迎えたのでした。
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- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。