二の丸騒動(1/2)江戸時代後期に起きた諏訪藩のお家騒動
二の丸騒動
260年余り続いた江戸時代には、幾度となく各藩でお家騒動が発生していました。そんなお家騒動の一つが明和7年(1770年)から天明3年(1783年)にかけて信濃諏訪藩(高島藩とも、現長野県諏訪地方)で起きた「二の丸騒動」。中心人物の第6代藩主・諏訪忠厚と二の丸派・三の丸派による、派閥争いと跡継ぎ問題が絡み合った事件は幕府の介入直前までいく大騒動を招きました。今回はそんな「二の丸騒動」について詳しく見ていきます。
お家騒動の舞台になった「信濃諏訪藩」
信濃諏訪藩は現在の長野県諏訪地方を統治した藩です。居城の高島城の名から「高島藩」と呼ばれることもあります。もともと諏訪は諏訪氏の支配下にありましたが、武田信玄が天文11年(1542年)の桑原城の戦いで諏訪宗家を滅ぼし、続く宮川の戦いでも勝利し諏訪全域を支配下に置きました。
織田信長による天文10年(1582年)の甲州征伐で武田氏が滅んだのちは河尻秀隆が諏訪地方を治めることになりますが、本能寺の変の後、混乱のさなか諏訪一族で諏訪上社大祝(神職)を務めていた諏訪頼忠が蜂起して本領を回復。天正壬午の乱の際は徳川家康と敵対するも和睦し、諏訪領を安堵されています。
その後、諏訪頼忠は天正18年(1590年)に家康が関東に移ったことに合わせて武蔵国比企郡奈良梨(埼玉県比企郡)など1万2000石に移封。変わって日根野高吉が諏訪に入ります。諏訪氏はその後上野国総社(群馬県前橋市)に移封し、このタイミングで忠頼は息子の頼水に家督を譲りました。そして関ヶ原の戦い(慶長5年・1600年)の戦功により、諏訪氏は慶長6年(1601年)に信濃国諏訪高島2万7000石に復帰。頼水は信濃諏訪藩の初代藩主になり、新田の開発などに注力していきます。以降、信濃諏訪藩は江戸幕府の終焉まで諏訪氏が治めていくことになるのです。
政治に興味のない藩主と二の丸派・三の丸派
二の丸騒動の主役の一人である諏訪忠厚は信濃諏訪藩の6代目藩主。江戸藩邸生まれで5代目藩主・諏訪忠林の4男にあたります。
信濃諏訪藩は3代目藩主・諏訪忠晴のころに藩政の基礎が固まりましたが、5代目の忠林のころには藩政が悪化し立て直しが急務となっていました。しかし忠林は生来から病弱で、藩政には興味を示さず学問にのめりこむ始末。ほとんど江戸におり諏訪には戻らず、政治は家臣たちに丸投げしていました。そんななか藩の財政難がどんどん深刻化していきます。このため忠林は家老の千野兵庫(貞亮)に財政再建を命じます。宝暦13年(1763年)、忠林が病のために隠居したことで6代目の藩主として忠厚が就任。ところが忠厚も病弱で政治は家来任せ。このため引き続き千野兵庫が政権を運営しました。
当時、家臣たちは三の丸に居住する家老・千野兵庫を中心としたいわゆる「三の丸派」と、二の丸に住む家老・諏訪図書(頼英)と子どもの大助(頼保)を中心とした「二の丸派」の2派に分かれて権力争いをしていました。ちなみに二の丸派は諏訪頼水の弟に連なる家系なので苗字が「諏訪」です。一方の千野氏は戦国時代から続く古い武士の家柄でした。石高はともに1200石で、藩内のトップ。もともと両派は藩の黎明期から協力して藩を支えていたのですが、両派を統制すべき藩主が家臣に政治を丸投げするに従い、対立がだんだんと激化していきました。
さて、5代目の忠林から改革を任された家老の千野兵庫ですが、家中などから借金して赤字を埋め、財政再建のために検地や新田開発や水田の増加、租率の引き上げなどさまざまな政策を実施し、藩政の立て直しを進めていきます。ただし、こうした政策は農民の負担が増えるため、農民からは強い反発をうけました。加えて商業では有力商人などを登用して流通統制をおこなったことや、「訴訟は町や村ではなく新役所でおこなう」と決めたことで、商人や新役所の役人たちの間で賄賂が横行してしまいます。
二の丸騒動①二の丸派VS三の丸派、政権を握るのはどっち?
千野兵庫による財政再建策は賄賂をはじめさまざまな波紋を生みました。さらに諏訪湖の氾濫をはじめとした天災が続いたことで信濃諏訪藩は大ピンチに。それに目を付けたのが千野・三の丸派と対立する二の丸派の諏訪図書・大助親子でした。
明和7年12月(1771年1月)、大助は藩内の町村に対し「困っていることを教えてほしい。理由を書面で大目付に差し出すように」とお触れを出しました。村々からは苦難を訴える声が多く集まり、大助はそれにもとづき関係者を処罰。さらに信濃諏訪藩・江戸屋敷の側用人で諏訪忠厚が重用している渡辺助左衛門に取り入り、「千野の悪政により民たちは困窮し、一揆をおこしかねないほど」と讒言しました。これを聞いた藩主の諏訪忠厚は兵庫に「閉門」、すなわち外出禁止の処罰を与えます。こうして兵庫が失脚したことで、二の丸派が三の丸派に取って代わり、政権を手に入れます。
明和9年(1772年)5月に諏訪図書は筆頭家老に、大助は150石を貰っています。そしてそこから8年に渡って二の丸派が政権を運営するのですが、この際も賄賂が横行する羽目になりました。例えば彼らが実施した検地は、終了後には田畑の面積が減少して村高が減少した、ということがあったほど。大助はもちろん検地した役人にまで賄賂が支払われていたことは言うまでもありません。村高が減るということは年貢が軽くなるということですから、賄賂を払ってもおつりがくるくらいでした。
これはあくまでも一例ですが、諏訪親子の政権運営時はこうした賄賂が横行しており、親子は時代劇の典型的な「悪代官」のような存在になっていったのです。
こうした藩の状況に危機感を覚えて動いた人物が、失脚させられた二の丸派のトップ・千野兵庫でした。兵庫は外出禁止令を破って江戸に出立し、藩主・忠厚に三の丸派の横暴を訴えました。それを聞いた忠厚は諏訪図書を逼塞・閉居、つまり自宅謹慎・出入り禁止にします。大助も家老職を辞めさせられて閉居を命じられました。もちろん関係した検地役人や村役人なども一斉に処分されています。
あっさりと手のひらを返した忠厚はいったいどういう心境だったのか…とは思うものの、なにはともあれ、兵庫率いる三の丸派はふたたび政権を奪取。賄賂を禁じるお触れを出すなどして綱紀粛正に取り組んでいくのでした。
二の丸騒動②跡継ぎを巡るお家騒動に発展
これで騒動は落ち着いた、と思いきや、諏訪図書ら二の丸派はまたもや政権を得ようと動き出します。きっかけは藩主・諏訪忠厚の跡継ぎ問題でした。忠厚には正室(阿部備中守正福の娘)との間に子供がおらず、2人の側室の間にそれぞれ1人ずつ息子がいました。それがトミ(お留殿)が生んだ長男・軍次郎と、キソ(おきそ)が生んだ次男・鶴蔵です。それぞれ二の丸派が鶴蔵を、三の丸派が軍次郎を擁立して戦うことになります。
跡継ぎ問題が持ち上がったのは天明元年(1781年)正月、江戸藩邸に忠厚の義理の父にあたる阿部正福が訪れた際のこと。正福は忠厚が病弱であることなどから、長男の軍次郎(成人済・14歳)の嫡子相続の手続きをおこなっては?と提案したのです。正妻の父親からの提案ですから後継者問題はほぼ確定、と思いきや、実は忠厚は次男の鶴蔵(11歳)を寵愛していました。
当時江戸藩邸では用人・渡辺助左衛門がまだ重用されており、助左衛門と鶴蔵の母・キソ、さらにその両親は親しい関係でした。キソの一族は江戸近在の大百姓で、庶民とはいえお金持ち。裏では藩への金銭的援助をちらつかせていたようで、彼らとしては鶴蔵を跡継ぎにつけたいという意向が強くありました。キソ自身も「自分の息子を跡継ぎに!」と意欲的だったようです。このため江戸藩邸では「跡継ぎ=鶴蔵派」という意見が主流でした。
そんな助左衛門と組んでいたのが諏訪大助。両者の関係は千野兵庫を陥れた讒言からずっと関係が続いており、助左衛門はだんだんと二の丸派に取り込まれていきます。とはいえ、大助たちが処罰を受けた際、助左衛門はうまく言い逃れて処罰から逃れてはいるのですが…。
二の丸騒動③お家騒動、まずは二の丸派の勝利
鶴蔵=二の丸派が江戸藩邸を掌握する中、危機感を覚えていたのが軍次郎=三の丸派。当時の一般常識通り、長男である軍次郎を跡継ぎにして二の丸派をつぶそうと動きだします。天明元年(1781年)1月には阿部正福の屋敷を軍次郎方の林平内左衛門が訪れ、阿部氏のご用人に対し渡辺助左衛門の専横を訴えました。
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。