平岩親吉天下人から絶大な信頼を得た忠臣

平岩親吉

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人物記
名前
平岩親吉(1542年〜1611年)
出生地
愛知県
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犬山城

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国宝天守
甲府城

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関係する事件

室町時代後期、中国の歴史になぞらえて戦国時代とも呼ばれた戦乱の世。この時代の終止符を打ったのが、徳川家康でした。家康は多くの家来に支えられながら、江戸幕府を興して天下人となります。この家康を支えた代表的な家来を徳川16神将と呼びますが、その中でも特に信頼された家来が、平岩親吉でした。今回は天下人から絶大な信頼を得た家来、平岩親吉に付いて見ていきたいと思います。

平岩親吉の小姓時代

平岩親吉は天文11年(1543)、平岩親重の次男として三河国額田郡坂崎村(現在の愛知県額田郡幸田町)において生まれます。幼名は七之助です。
親吉の生まれた平岩家は、三河国に住んでいました。
親吉の父、親重(新左衛門)の時に松平氏に属し、松平清康・広忠に仕えます。ところが、平岩親重は京よりやってきて岡崎に滞在した武士の無礼を憤り、殺害してしまいました。そのため、坂崎村において蟄居したと言います。

さて、平岩家が仕えた松平家(後の徳川家)はこの頃、東の今川家と西の織田家とに挟まれ、弱い立場にありました。
そこで松平広忠の息子、竹千代(後の徳川家康)は駿河国(現在の静岡県東部)の人質として駿府(現在の静岡市)に送られます。

平岩親吉も竹千代の小姓として駿府に至り、幼い頃から徳川家康に仕えました。
元禄元年(1558)三河国では国衆の大規模な反乱が起きました(三河忿劇)。実質的に三河国を支配していた今川家は討伐に徳川家康を出します。家康は出陣し初陣を果たします。親吉も家康に従い、同じく初陣を果たしました。
家康、親吉ともに15歳の頃です。

ところが永禄3年(1560)5月、桶狭間の戦いで尾張国(現在の愛知県西部)の織田信長が今川義元を討ち取った事で、徳川家康は今川家からの独立を果たします。
平岩親吉もこの間、三河国の統一や今川領であった遠江国の平定など徳川家康に従って戦い、戦功を挙げていきました。

徳川信康の譜役時代

桶狭間の戦いで今川家からの独立を果たした徳川家康は、永禄5年(1562年)織田信長と清洲同盟を結びます。
徳川家康が今川家から独立を果たし、織田家と同盟を結んでいる間、平岩親吉もまた家康に付き従い戦功を重ねていきます。幼いころから家康に仕え、武勲を立てた親吉を家康も信頼します。

そこで家康は、信頼している平岩親吉を家康の長男、松平信康の傅役に任じました。徳川家康の長男、松平信康は永禄10年(1567)5月、織田信長の娘である徳姫と結婚し、共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らし始めました。また信康は、天正元年(1573)に初陣を果たすと勇猛果敢な働きを見せ、今川領を併呑し移った徳川家康の後を受けて、三河国を治めます。信康は三河衆を束ねて、武田家と戦い父の家康によく仕えたと言われていました。

ところが天正7年(1579)の事です。
一説に、信康は織田信長により切腹を要求されたと言われています。
理由は今もって不明ですが、妻の徳姫と不仲で徳姫が父の織田信長に讒言したとも、徳川家の派閥抗争が発展して織田信長を巻き込んだとも、言われています。この事態に驚いたのが信康を補佐していた平岩親吉です。

この時、信康の傅役であった平岩親吉は責任を自分が被り、自らの首を信長に差し出すことで一連の問題を収めるよう求めました。しかし信康の処断を防ぐことは出来ず、その責任を感じて蟄居謹慎します。
暫らく蟄居した後、家康に許され、再び直臣として復帰しました。この復帰の際、親吉は亡き信康の家臣を自らの家臣としたそうです。

ところで信康の自害の後、親吉と同様に蟄居した者や後を追って亡くなった者がいました。後年の話です。同じく信康の傅役であった榊原清政(上野館林藩祖である榊原康政の兄)は信康の切腹に責任を感じて、親吉と同様に蟄居します。その後、家康に呼び戻されて久能城の城主となった清政は、平岩親吉と侍女が持っていた信康の遺髪を譲り受けて、江浄寺に墓を立て、信康を祀り弔いました。

甲斐の郡代と関東移封

徳川家康と同盟関係にあった織田信長は、近畿、東海を中心に勢力を拡大します。
ところが、天正10年(1582)本能寺において信長は配下の明智光秀に討たれます。その後、織田家の中で羽柴秀吉や柴田勝家の主導権争いが起きました。
その間、家康は独自の勢力拡大を図ります。旧武田家領でした信濃(現在の長野県)や甲斐(現在の山梨県)に目を付け、岡部正綱を中心とした家臣を使って、これらの領地を取り込みました(天正壬午の乱)。

家康は天正11年(1583年)までに甲斐国を併呑すると、平岩親吉は家康の命令で甲斐の郡代として赴き、岡部正綱と共同で旧武田遺臣など地域の武士を鎮撫し地域の安定に尽力します。それと同時に、新たな国府として甲府城の築城を開始しました。

ところが徐々に羽柴秀吉の勢力が大きくなると、家康は秀吉に臣従します。そして天正18年(1590)関東の北条家を倒し(小田原征伐)、秀吉は家康に関東の地への転封を命じます(関東移封)。この関東への移動に際して家康は、それまで従ってきた家来にも土地を与えました。平岩親吉はそれまでの功績と忠誠から、上野国(現在の群馬県)厩橋3万3,000石を与えられました。

尾張藩附け家老と犬山藩主

慶長3年(1598)豊臣秀吉が亡くなると、関東を領する徳川家康が台頭します。その家康に対して、豊臣家の奉行、石田三成が歯向かいます。
慶長5年(1600)徳川家康と石田三成は関ケ原で激突、徳川家康がこの戦いに勝ち、天下を治めるようになります。
関ヶ原の戦いの終わった慶長6年(1601)、平岩親吉は上野国厩橋藩から再び、甲斐国甲府に戻り6万3000石を与えられ甲府城に在城しました。

ところで家康の長男、松平信康の時もそうでしたが、謹直に徳川家に仕える平岩親吉への家康の信頼は絶大でした。そこで、家康は再び親吉に家康の9男義直の守り役を任せます。
慶長8年(1603)徳川家康の9男、徳川義直が甲府藩25万石に封じられると、幼少で駿府の家康の下にいる義直に代わって、親吉は甲府の管理を行います。

慶長12年(1607)、尾張国を領していた徳川家康の4男、松平忠吉が亡くなると、徳川義直がその後を受けて清洲城に入りました。親吉も義直の附家老として尾張国へ移り、犬山城12万3000石を拝領するとともに、尾張徳川家の藩政を行います。
平岩親吉は幼い義直を盛り立てながら、尾張国の統治を行っていましたが、慶長16年(1611)12月30日、名古屋城二の丸御殿で死去しました。享年70。

平岩親吉の墓所は現在、愛知県名古屋市にある平和公園内(平田院墓域)にあります。また、愛知県岡崎市にある妙源寺には徳川家の家臣、本多忠豊、忠高、安藤直次、高木清秀などと一緒に平岩親吉のお墓もあります。

平岩親吉の終わりと平岩家

平岩親吉には子がいませんでした。そこで徳川家康は平岩家が断絶する事を惜しみ、家康の8男松平仙千代(或いは家康の庶子、松千代とも)を養嗣子として与えていましたが、仙千代は慶長5年(1600)に亡くなったので、親吉には跡を継ぐ者が最終的にできませんでした。

親吉は亡くなった後に関して、与えられていた犬山藩の所領を仕えていた徳川義直に譲るよう遺言しています。ところが、家康は親吉の家が断絶する事をなお惜しみ、親吉との間に生まれたという噂のあった子を聞きつけて、その子に犬山藩を継がせようとします。
この子は増山河内守に仕え、堀隼人正重と名乗っていましたが、子の母親が新吉の子供ではないと固辞したため、親吉の系統の平岩家は断絶しました。

犬山藩は甥の平岩吉範が慶長16年(1617)まで支配していたと言われますが、その後、尾張徳川家の附家老成瀬家に引き継がれます。
親吉の一族衆の平岩氏庶家は尾張藩士となり弓削衆と呼ばれました。また、江戸後期では姫路藩の藩士として家老として存続し、現在でも兵庫県等でその系統は続いているそうです。

平岩親吉と逸話

秀吉公黄金贈与
豊臣秀吉が伏見城を築城した時のお話です。
徳川家康は築城の祝いとして、井伊直政、本多忠勝、榊原康政、平岩親吉を使者として派遣しました。
秀吉は訪れた4人に対して築城の祝儀として、黄金100枚を家康には内緒で与えました。
井伊直政と本多忠勝はそれを素直に受け取ります。榊原康政は受け取った後に、家康に報告しました。
平岩親吉は、「自分は徳川家康に扶持をもらい、衣食も足りているので辞退する」旨を述べ秀吉に対してその場で辞退しました。このような親吉の実直な性格を徳川家康は、大変信頼したと言われています。
『三河後風土記』(みかわごふどき)と平岩親吉
『三河後風土記』の作者の一人が平岩親吉と言われています。
『三河後風土記』は、徳川氏による幕府成立までの過程に関して書かれた書物で全45巻、徳川氏の祖と称している清和源氏から徳川家康将軍就任までの700年間余りを年代順に記述しています
この『三河後風土記』の序において、「慶長15年(1610)5月成立の平岩親吉著」とある事から、平岩親吉による著作と見られていますが、実際には正保年間以後に作成され、著書も実際には誰であるか不明とされています。
平岩の射割石
愛知県額田郡幸田町坂崎にある「平岩の射割石」は、平岩親吉の先祖、平岩氏重が徳川家康の先祖松平信光に従い坂崎の領主となった時、この巨石(現在残っているのは巨石の一部)に因んで「平岩」姓を名乗ったそうです。

甲府城(こうふじょう)

甲府城は甲斐国(現在の山梨県)にあった城で、現在の山梨県甲府市一条小山に存在しました。別名を舞鶴城とも呼ばれ、国の史跡に指定されています。

甲斐国は古くから躑躅ヶ崎館(武田氏居館)を中心に武田家が治めていましたが、戦国時代に武田勝頼の代で滅亡します。その後は、織田家、徳川家と支配が移りました。
徳川家の支配に移った天正11年(1583)に徳川家康は平岩親吉に命じて一条小山の縄張りを行い、甲府城の築城を企図したと言われています。

天正18年(1590年)の小田原合戦により後北条氏は滅亡し、家康は旧後北条領国の関東へ転封されます(関東移封)。甲斐は豊臣秀吉の家臣である加藤光泰、その後は浅野長政に与えられ、豊臣大名時代には甲府城の築城が本格化しています。
江戸時代に入ると、甲府藩が設置された他、江戸幕府の天領として直轄経営されていきました。

明治時代に入ると廃藩置県により甲府城も廃城・解体され、その後、中央本線の開通により城のあった敷地内も分断され、石垣以外はほとんど手付かずの状態でした。
戦後は史跡整備のための発掘調査が行われ、城の復元整備が開始されます。これまでにいくつかの曲輪や門の整備が行われ、2003年(平成15年)に稲荷櫓が、2007年(平成19年)には分断された北側の山手渡櫓門が復元されました。

現在、城跡は「舞鶴城公園」「甲府市歴史公園」として整備され、現在は市民のために開放されています。

犬山城(いぬやまじょう)

犬山城は、尾張国(現在の愛知県西部)と美濃国(現在の岐阜県)との境、木曽川南部にあり、現在の愛知県犬山市にあります。

室町時代、岩倉織田家の一族によって建てられた犬山城は、織田信長の叔父、織田信康によって現在の場所へと移築され、織田信長の城の1つとなりました。
慶長12年(1607)に平岩親吉が尾張徳川家の附家老として移って以来、平岩家の居城となり、平岩親吉はこの城で亡くなりました。
元和3年(1617)親吉が亡くなると、甥の平岩吉範が城主を6年間務め、その後は江戸時代を通して尾張徳川家の附家老である成瀬家が城主となります。

明治4年7月(1871年8月)廃藩置県により、全国の城郭が処分、破却となり犬山城も例外ではありませんでした。城は、天守を除いて大部分が移築、取り壊しとなります。
ところが天守は残され現在もその姿を留めています。ですから全国の現存している天守閣12(現存12天守)の1つであり、国宝と指定された5つの城の1つでもあります。
また成瀬家の当主であった成瀬正壽がオランダ商館長と親しかったことから、天守の最上階に絨毯を敷いたと伝えられ、昭和の修理で再現されました。

犬山祭り
平岩家の後に城主となった成瀬家が寛永12年(1635)に出した沙汰により、針綱神社の氏子が行粧の車山・ねり物を出すようになります。以来、全て3層からなる13輌の車山にはからくり人形があり、犬山祭の際には奉納からくり人形を披露します。
4月の第1土曜日曜に行われ、昼間は桜の下、夜は提灯に彩られた中で車山が巡行され、豪華絢爛な祭が行われます。

平岩親吉の年表

西暦 和暦 年齢 出来事
1542年 天文11年 0歳 三河国に生まれる。徳川家康の家臣・平岩家の出身
1560年 永禄3年 18歳 桶狭間の戦い後、徳川家康に仕え重臣として活動
1570年代 元亀・天正年間 30代 徳川家の譜代家臣として軍事・政務に従事
1582年 天正10年 40歳 本能寺の変後、徳川家康の伊賀越えに同行
1590年 天正18年 48歳 家康の関東移封に伴い、上野厩橋城主となる
1600年 慶長5年 58歳 関ヶ原の戦いでは江戸の守備を担当
1611年 慶長16年 69歳 死去
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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。