島原城(2/2)城主が語る島原城

7年もの月日をかけて島原城を築いた重政だが、完成から6年後に世を去ることになる。重政が島原半島にやってきた14年の間に世相は随分と変わってしまった。潤沢な利益を得られるはずだった南蛮貿易は幕府による管理が強まり、一介の大名が手を出すことはできなくなってしまった。そもそも南蛮貿易と日本を繋ぐキリスト教信仰や布教の禁止は年々厳しさを増し、キリスト教信者・キリシタンの処刑や弾圧を幕府が推進するほどじゃ。

重政が島原を治める以前は、キリシタン大名の有馬晴信が島原を統治しておった。晴信が南蛮貿易で得た財と軍備は相当なものだったであろう。文禄の役の際、島原半島4万石の大名とは思えない軍備で他の大名を驚かせたという逸話も残る。晴信がこれほどまでに南蛮貿易で多大な利益を得ることができたのはキリスト教を保護していたからじゃ。幕府から度重なる禁教令が出ても、晴信は自身の領地の中で司祭やキリシタンを匿った。晴信自身も禁教の波に抗うように棄教は致さなかったし、領主がそうであるように領民の多くもキリシタンであった。

100年以上島原半島を納めていた有馬家に代わり、新領主として現れた重政に領民がどのような感情を抱くのか、そして世相が求めるキリシタン弾圧を行う重政にどのような想いを向けるのか想像に難くないじゃろう。

重政が死去した後、島原藩の領民たちの暮らしは更に逼迫いたした。重政の息子の勝家は重政以上のキリシタン弾圧を行い、重税を課し、手ひどい徴収を行った。天は領民を見捨てるかの如く、飢饉につながる不作、天災が九州を襲う。民が疲弊し、不満を抱き、怒りを胸にし、立ち上がったのが島原・天草一揆だった。

島原城は悪政の象徴と言わんばかりに一揆勢らに攻められた。重税の原因とも言われる島原城はあまりにも屈強で、一揆勢は大手門を破ることすらできなかった。皮肉な話である。

その後一揆勢らは島原城から南に30kmほどのところにある、当時廃城となっていた原城に籠城をする。幕府が黙って見ているわけはなく、約12万もの兵でこれを囲んだ。約半年続いた戦は一人を除く、一揆勢ら3万7000人全員の死で幕を閉じた。

簡単な説明となったが、これが島原の乱、島原・天草一揆である。一揆勢を率いたのが天草四郎時貞であるのは有名な話じゃな。

一揆勢が籠城致した原城の側には日野江城がある。島原城を築城する前、重政は日野江城に入った。そこは前述した有馬晴信が居城としていたこともあり、城下は所謂キリシタン王国が広がっていたことが想像される。それらキリシタンの領民から物理的に距離をとるため、新たな政治の拠点として築城したのが島原城じゃ。

皮肉にも、この戦いは日野江城・原城周辺がキリシタンの結集しやすい土地であることを証明し、島原城の築城の必要性だけでなく、「4万石の大名には過分な城」と称される島原城がなぜ強固なものでなければならなかったかを証明したもいえるじゃろう。
これが1つ目の事件である。

そしてもう一つ目の事件は「島原大変」と呼ばれるものじゃ。
これは島原天草一揆が人間の手による脅威であったのとは対照的に、城の背を守る普賢岳による天災である。

1792年、江戸時代後期。雲仙普賢岳が噴火致した。それに伴い、島原半島では地震が群発する。時の藩主である松平忠恕は、万が一のことがあってはならぬと家臣をともない島原城から北に約30km先の守山村へ避難する。避難に対しては賛否両論あったようで、どうにか避難せず、城を枕に民と共にあって欲しいと、城門から出ようとする忠恕に諫言する者もいたという。

群発する地震は最悪の事態を引き起こした。普賢岳の側にそびえる眉山が山体崩壊をおこしたのだ。崩れた土砂は町を飲み込んだ上に有明海に流れ込み、それは津波を呼び起した。津波は島原に押し寄せただけではなく、有明海を挟んだ向う側の熊本まで牙をむいた。これが島原・熊本合わせて約1万5000人もの被害を出した、有史以来の火山災害「島原大変肥後迷惑」である。

島原大変でおきた津波は島原城の足元まで迫った。記録では城門のすぐ側まで波が寄せたが、城が大きな被害を受けることはなかった。

そして記憶に残っている方もいるであろう1991年(平成3年)に起きた普賢岳の噴火、それにおける火砕流の発生による被害は甚大で、41名の命が奪われた。このときも島原城には大きな影響はなかった。そればかりか支援に向かう自衛隊の駐屯地として使われたと聞く。

2つの火山災害から見てわかるように、島原城は天災につよい。海からも、山からも影響をうけぬ絶妙な場所に築かれておる。敵からの侵攻だけでなく、天災ですら侵すことができないのだから誠に堅固な城である。
そのような城は災害時、民たちにとってはどのような存在であっただろうか。

島原大変では、いつ何が起こるのか分からぬ天災に怯えながら、城主のいない城は民の目にどのように映ったじゃろう。そして波がすべてを奪った地で、変わらぬ姿でそびえる島原城をどのような思いで見つめたのだろうか。平成の噴火の際は皆の瞳に、支援へ向かう自衛隊隊員の目に、島原城はどのように映ったのであろう。

6.最後に

島原城について長く語って参った。
機能美から、築城主松倉重政の野望、そしてそれに翻弄された人々の苦しみ等、島原城にまつわる「想い」に焦点を当てた。言葉や写真で伝えられるものは一片でしかないと、毎日島原城に出陣いたす私は思うのだ。
故に、ぜひ実際に島原城に参り、その規模に圧倒され、そして様々な歴史に想いをはせてほしい。島原城は「誰の目線で歴史を見るか」によって姿を変える城であることを、実感してほしいと思う。

そして最後になり申したが、島原城には私を始めとする武将が毎日出陣いたしておる。ぜひ我ら島原城七万石武将隊に会いに参ってくだされ。この文章を読んだ方から直接感想を聞ける日を待っておるぞ!

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島原城

高力忠房
紹介者 高力忠房(島原城七万石武将隊) 島原城三代目城主で、島原・天草一揆で荒廃した島原の復興をおこなったお殿様。島原城七万石武将隊として蘇ってからはイベント時にMCを務めたり、観光客の方と長話をしたりと、とにかく喋るのが好き。Twitterの更新頻度を上げるのが最近の目標。 島原城七万石武将隊 400年前の島原半島を舞台に活躍した4名の武将が島原城に蘇る――
拠点の島原城に毎日「出陣」し、観光客の方へおもてなしを行う。ときには県外へ「遠征」し、島原城や島原市の観光PRを行うことも。
土日祝日には島原城で演舞を披露している。各種SNSも積極的に更新中。
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