島原城(1/2)城主が語る島原城
やぁやぁ、皆様方、こんにちはじゃ!夏が一日一日と近づいておるが、息災であるじゃろうか。
私は島原城三代目城主・高力忠房である。
此度は「好きなお城」を主題にコラムを綴りに日本の旅侍に馳せ参じた。おそらく長い文章になるであろうが、最後までお付き合いよろしゅう!
1.私について
好きな城について語る前に、私の文体が気になる方も多かろう。故に、私のことを少し話させていただこう。
先にも記したが、名は高力忠房と申す。島原城の三代目城主じゃ。生まれは400年前・1584年、来年で440歳を迎える武将であるが何の因果か令和の世に蘇り、島原城七万石武将隊として日々を過ごしておる。
島原城七万石武将隊は私のように時を超え、性別を超えて蘇りし4名の武将により構成されている。日々、島原城にて観光客の皆様方をおもてなし致したり、SNSなどを利用して島原の魅力を発信致しておる。
つまり、このコラムは武将自らが城の魅力を語って参るのである。いやはや、400年前であれば考えられぬことであるが、令和の世とは誠に自由で心地よい。
2.好きなお城
私のことはだいたいわかって頂けたであろう。そして私が綴る「好きな城」についても検討がついたことかと思う。
私の好きな城は、やはり活動拠点である「島原城」じゃ。
まずは勇猛かつ美しいその姿をご覧頂こう。
いかがじゃろうか。これらの写真を見て思うところがそれぞれあるであろう。もしかすると「●●城に比べたら大したことない」「実際に見てみるほどじゃないな」など思う者もおるやもしれぬ。そんなお主らにいかに関心を抱いてもらえる紹介をいたすか、私の腕の見せ所である。
3.島原城
まずは島原城の基礎から紹介いたそう!
島原城は長崎県島原市に所在する。来年、2024年に築城400年を迎える比較的新しい城じゃ。廃城令で解体されるまで島原半島の政治の中心であった。
島原半島は長崎県南部に位置する。有明海に抱かれた地で、東側は海を挟んで熊本県を臨むことができる。半島の中心には雲仙普賢岳がそびえており、人々の暮らしを見守って
いる。海も山もある地、それが島原である。
そして「島原」と聞き、多くの方が思い浮かべるものがある。それは島原・天草一揆――馴染みのある言葉に言い換えるのでれば「島原の乱」である。その舞台となったのが、島原、そして島原城じゃ。
島原城は1618年に奈良よりやって参った松倉重政の手によって築城された。
島原に入封するまでの重政は奈良の五條を治める1万石の大名であったが、大坂の陣での武功を認められ4万石の肥前国島原を治めることとなった。畿内という都会から離れ、地方に配されたといえども3万石の加増を思えば大出世じゃ。その心意気やいかばかりか。それは島原城からも見ることができるのう。
島原城は五層の天守が本丸にそびえている。小高い丘の上にたっておる故、たいへん目立つ。これまでの写真は復元天守であるが、高さ等は当時の史料にあたり復元されている。現在ですら、ビルの影から城の姿が見えるのだ。当世のように高い建物のない時代ならば、なおのことであろう。
島原城は江戸の初期によく作られた層塔型天守という形式の城だ。積み木のように層を重ね、華美な装飾が削られている。それ故、工期と工費が少なくて済むのである。
島原城の外観の一番の特徴が最上階以外に破風を持たぬことじゃ。乱暴な説明であるが、破風とは城の屋根の真ん中にある三角形の屋根のこと。これが全くない、すっきりとした天守が島原城である。破風がある天守はやはり見栄えもよく圧巻であるが、破風が全くない天守は妙な迫力があるように思う。
迫力があるのは天守だけではない。石垣も相当なものである。
現在の島原城天守は1964年に再建したものであるが、本丸や二の丸を囲む堀や石垣は築上当時の姿で残っているところがほとんどじゃ。
見よ、この石垣!かくかくと折れている部分は屏風折れと申し、前面と横から敵を攻撃することができる。
そして、なんと!現在の島原城は堀のそばまで降りることができる。ここから石垣を見上げるとその高さに圧倒される!
大きさの比較にと私も写真に映ってみたが、実際にその石垣の圧を島原城で感じていただきたい。写真では伝わりきらぬ迫力なんじゃ!
ちなみにこの写真で見えている建物。これは天守ではなく、三層の櫓(西の櫓)である。天守はさらに奥にある故、守りの堅さが見てとれるであろう。
実は島原城は堀のそばまで行けるだけではなく、堀の中に入ることもできる!島原城東側の堀は現在は涸れているため、中に入ることができるのである。堀の中から見る石垣は……、うむ、絶望!つい敵兵の気持ちで石垣を見上げてしまうものである。
二の丸の石垣もそのまま残っておるため、東側からは本丸の石垣と二の丸の石垣を比べることもできる。やはり本丸の石垣のほうが高い。一人の兵として、石垣を間近で見ると現在では観光の象徴である島原城も要塞へと姿を変えるのだから不思議なものである。
これらの石垣が守るのは五層の天守。天守の最上階に立ち、周囲を見渡す。城を守るようにめぐらされた石垣と堀。それを挟んで武家屋敷が並ぶ。その背後にそびえる雲仙普賢岳の稜線はまるで島原城の背を守る壁のようだ。そして眼前に広がるは有明海。かつて南蛮貿易の中心地であった島原はその利益を多く得ていた。欧州へ伸びる海の前には、築上するに当たり新しく整備した城下町が広がり、人々が生活している。
築城主、松倉重政はどのようにこの景色を見たのであろう。城下町の整備も含め築城には7年もの歳月を要した。感無量だったか、未来に続く野望を胸に抱いたか。
とりあえず私ならば酒を一杯煽るな。
4.島原城の魅力
城の魅力とはなんじゃろうか。人によっても、そして城によっても様々であろう。
私が感じる島原城の魅力は、堅固なつくりであること。そして先に私が想像で綴った「天守に立つ重政」のように、そこにまつわる人々の感情を想起しやすいこと。この2つが島原城の魅力であると感じる。
島原城の基礎知識、どのような城であったか、立地はどうであったかは皆々十分にわかってくださったことであろう。故に、そこから更に踏み込んで島原城を取り巻く大きな2つの事件から、その魅力を語って参ろう。
5.島原の乱と天災
島原城を語るに欠かせぬのが島原天草一揆である。まずは一揆が起こる背景などを含めて説明して参ろう。
- 紹介者
高力忠房(島原城七万石武将隊)
島原城三代目城主で、島原・天草一揆で荒廃した島原の復興をおこなったお殿様。島原城七万石武将隊として蘇ってからはイベント時にMCを務めたり、観光客の方と長話をしたりと、とにかく喋るのが好き。Twitterの更新頻度を上げるのが最近の目標。
島原城七万石武将隊
400年前の島原半島を舞台に活躍した4名の武将が島原城に蘇る――
拠点の島原城に毎日「出陣」し、観光客の方へおもてなしを行う。ときには県外へ「遠征」し、島原城や島原市の観光PRを行うことも。
土日祝日には島原城で演舞を披露している。各種SNSも積極的に更新中。 公式HP・SNSはこちら