細川忠利ガラシャの息子

細川忠利

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人物記
名前
細川忠利(1586年〜1641年)
出生地
京都府
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熊本城

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戦国時代、織田信長を本能寺の変で自害に追い込んだのが明智光秀でした。光秀には玉(ガラシャ)という娘がいます。玉は細川忠興の妻となり、二人の間には幾人かの子供が出来ました。ところが玉も関ヶ原の戦いの直前に、自害に追い込まれます。そんな明智光秀を祖父に、玉を母に持ったのが細川忠利でした。忠利は細川家の家督を継ぎ熊本を領します。今回は細川忠利について見ていきます。

出生と母ガラシャ

細川忠利は丹後国(現在の京都府北部)を領していた細川忠興の三男として天正14年(1586)11月に生まれます。母は忠興の正室である玉(細川ガラシャ)です。
母の玉は、明智光秀の娘でした。光秀は天正10年(1582)本能寺の変を起こし、主君であった織田信長を自害に追い込みます。その後、光秀は細川家に助力を求めましたが細川家の方ではこれを無視。さらに細川忠興は光秀の娘であった玉を幽閉しました。

その2年後、玉は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の執り成しもあり丹波の幽閉先から大坂にあった細川家の屋敷に移されましたが、監視の下での生活は続きます。そんな中での忠利誕生でした。
忠利を産んだ玉でしたが気苦労が絶えませんでした。忠利は病弱であり、父である明智光秀は本能寺の変を起こした事で亡くなっています。また細川家での監視の生活は続いていました。そこで監視の目を盗み、玉は教会へと話を聞きに行きます。
そして何度か通う内にキリスト教へ改宗しました。ただ気性の激しかった夫、細川忠興に改宗を告白したのは5年以上先でした。

玉の改宗に関しては、イエズス会の宣教師たちが本国へ送った報告書にも記されています。コルネリウス・ハザルトはその報告書を基に「教会の歴史-全世界に広まったカトリック信仰」の訳本「日本の教会史-丹後の女王の改宗とキリスト信仰」を作りました。
その翻訳本からイエズス会の校長ヨハン・バプティスト・アドルフが脚本を書き、音楽はヨハン・ベルンハルト・シュタウトが作曲したのが「強き女—またの名を、丹後王国の女王グラツィア」というオペラです。そのオペラの内容は、実話に近い内容でオーストリア・ハプスブルク家が特に好んだ、と言われています。

関ヶ原の戦いと母の死

細川忠利が生まれると、天下は豊臣秀吉のものとなりました。ところが慶長3年(1598)秀吉は亡くなります。豊臣秀吉が亡くなると、徳川家康が台頭しました。
この家康の台頭に秀吉子飼いの奉行、石田三成が対立します。石田三成は他の豊臣家大名から反感を買っており、細川忠興も三成を憎んでいました。忠興は早々に徳川家の側に付き、忠利は江戸(現在の東京都)に人質として送られました。

そして慶長5年(1600)、忠利15歳の年。
上杉景勝が会津(現在の福島県)において徳川家康に決起します。この上杉景勝を討伐すべく、家康は会津征討の軍を整え大坂を出ました。ところが家康が関東まで来ると、大坂において石田三成が反徳川の狼煙を挙げます。

三成は大坂にいる家康に付いた諸大名の妻子を人質に取ることを考えました。細川家にも使者を出し、忠興の妻である玉を大坂城に移すよう指示を出します。
これを玉ははねつけたので、石田方は兵を出して細川家の屋敷を囲みました。屋敷を囲まれた玉は最後まで抵抗し、自害(玉はキリスト教を信奉していたので、自死はせず家来に殺させた、とされます)し亡くなりました。忠利は母の死を江戸において知ります。

また領国の丹後国は祖父である細川藤孝が守っていましたが、石田方の軍勢に包囲されます。飛び地の領地である九州豊後国杵築は重臣である松井康之などが守っていましたが、周囲を石田方の勢力に囲まれています。
父は家康の軍に従軍し、母は大坂で自害、祖父は石田方の軍勢に囲まれ、飛び地の豊後国杵築も石田方の勢力に囲まれている、そんな激動の期間を忠利は過ごします。

しかしこの期間、忠利は家康の軍に従軍している父忠興に情報を送り続け、連絡を絶やしませんでした。そんな忠利は徳川秀忠に近侍していましたが、この直後に元服します。
そして関ヶ原の戦いが起こりました。

徳川家康と石田三成とが戦った関ヶ原の戦いは家康の勝利となります。忠利の父、細川忠興は大いに活躍し丹後から九州小倉39万石の大大名となりました。

世子決定と長兄細川忠隆

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いは徳川家の勝利で終わりました。ところでこの年の師走。父の細川忠興は長男の細川忠隆を廃嫡し後継候補から省きました。諸説ありますが主に以下の理由と言われています。

忠興の妻玉は関ヶ原の戦い直前に大坂の屋敷で亡くなりました。ところが忠隆の妻千世は玉の死の直前に逃げます。これを忠興が怒り、嫡男忠隆が妻をかばった為に廃嫡した、と言われます。
あるいは関ケ原の戦いの前年、加賀国の前田利長が徳川家康の暗殺を謀ったと言われます。この利長と忠隆の妻千世は同母兄弟で、細川家にも暗殺加担の嫌疑が掛かったため疑念を払拭する意味で廃嫡した、とも言われます。

兎にも角にも細川忠興は忠隆を廃嫡しました。忠隆は出家し、妻を連れて京に暮らす祖父細川藤孝の下に移りました。細川家の後継は次男興秋、三男の忠利が候補となります。
次男の興秋は関ヶ原の戦いに従軍し功績を挙げ、小倉城城代になっています。一方で三男の忠利は江戸で人質になりさしたる功績もありません。しかし江戸にいる事で、徳川秀忠や徳川家臣の子弟と懇意になり強力なパイプを作っていました。

父の忠興は長男の忠隆を廃嫡しただけで、後継についてはしばらく定めませんでした。ところが慶長9年(1604)、忠興が病で倒れます。将軍である徳川家康や嗣子の徳川秀忠は後継に忠利を定めるよう薦めます。
忠興はこの後、病から回復し忠利を後継候補の筆頭に決めました。そこで江戸にいる忠利を小倉に戻し、次男の興秋を人質として代わりに江戸へ送ります。ところが興秋はその道中で出家し、祖父藤孝、兄忠隆が住む京へ出奔してしまいました。

大坂の陣と次兄細川興秋

細川忠利の代わりに江戸へ人質に出された次兄の細川興秋は途中で出奔し、祖父である細川藤孝の下に身を寄せていました。ところが慶長20年(1615)徳川家と豊臣家とが戦った大坂の陣が始まります。興秋は豊臣家から誘われ、この前年には大坂城に入城し、奮戦しました。しかし豊臣家は敗北し滅亡。逃げた興秋は伏見に隠れますが、最後は自害してしまいました。

こうして細川忠利は細川家の後継と決まり、元和6年(1620年)に父忠興から家督を譲られて小倉藩主となりました。
この忠利が小倉藩主だった時のお話です。

忠利は葡萄酒(ワイン)が好きでした。そこで家臣の上田太郎右衛門に命じ、ワインを作らせます。この家臣が作ったワインは葡萄をアルコールにつけた果実酒のようなものではなく、山葡萄を黒大豆の酵母に添加し発行させたワインでした。これは日本における最初の国産ワインと言われています。ただし当時、ワインはキリスト教に関連した飲み物と考えられ、禁教令に伴い細川家でのワイン作りも終了しました。

また小倉の細川家では寛永元年(1624)から寛永5年(1628)に掛けて貨幣鋳造も行われていました。これは幕府が行った寛永通宝より前に行われ、鋳造も請負制による入札で行われました。この貨幣はベトナムで上質の貨幣として輸出され、上質の貨幣としてベトナム国内で流通していました。細川忠利は小倉藩主として様々な試みを行っていました。

家督継承と父細川忠興

九州の小倉を治めていた細川忠利でしたが、寛永9年(1632)肥後熊本藩の加藤忠広(加藤清正の子)が改易された為、その加藤家の後に移り熊本54万石を治める事になりました。忠利は熊本藩主として島原の乱にも参戦、武功を挙げています。

この熊本を治めていた寛永18年(1641)、忠利は1人の剣客を客人として迎えました、宮本武蔵です。武蔵は客人として屋敷を与えられ、鷹狩りを許されるなど賓客として遇されました。この熊本に居を構えた時代、宮本武蔵は画や工芸などの作品を制作、今日までその作品は残ります。また熊本近郊の金峰山にある岩戸、霊巌洞に籠り書かれたのが『五輪書』でした。

細川忠利は宮本武蔵を招きましたが同じ年、寛永18年(1641)に亡くなりました、享年55。細川家の後継は長男の細川光尚が継いでいます。
将軍であった徳川家光は「越中早く果て候」(死ぬのが早すぎた)と嘆かせるほど、徳川家にとっても忠利は重要な人物でした。

出水神社

出水神社(いずみじんじゃ)は、細川家の歴代当主を祀る神社として、熊本市中央区にある水前寺成趣園内に置かれた神社です。
明治10年まで行われた西南戦争において熊本は最大の激戦地となりました。熊本市街は焦土と化し人心は疲弊します。そこで復興にあたり町の人々が拠り所となるような場所を作ろうと考えられました。西南戦争の翌明治11年(1878)、かつて仕えていた細川家の家臣らによって出水神社は創建されました。

祭神は忠利の祖父細川藤孝(幽斎)、父忠興、細川忠利、名君の誉れ高い6代藩主重賢を主祭神とし、その他の藩主や忠興の妻玉など11柱を配祀しています。春や秋の祭では古武道、剣道、流鏑馬などの奉納が行われます。特に夏祭りで奉納される薪能は敷地内の能楽殿で行われ日本で5番目に古いとされています。

八代神社氷室祭

細川忠利は病弱だった子供時代でもあったので、父忠興は痛く心配しました。そこで忠興は度々忠利に対して、栄養配分を考えた食事を摂る事、同じものをたくさん食べない事、を書状で忠告しています。

そんな心配性の父忠興でしたが、忠興の食べ物に関するお話があります。
細川家は加藤家の後を受けて熊本を治めるようになりました。父の忠興はこの時、八代を隠居所とします。八代の民は隠居生活を送る忠興が無事に夏の暑さを越えられるように、近くの三室山に氷室を作り冬の雪を蓄えて献上しました。
これが現在の熊本県八代市の八代神社で行われる「氷室祭(ひむろさい)」の始まりと言われています。

「氷室祭(ひむろさい)」は5月31日、6月1日に行われ、還暦や厄年を迎えた人たちが無事に願う祭りです。またこの祭りに合わせて販売される「雪餅」は雪に見立て、あんを米粉の生地でくるんだものを蒸した御菓子です。まつりでは無病息災を願い、このお菓子を食べる事を習慣としています。

小倉城

小倉城は、福岡県北九州市にあるお城でした。勝山城、鯉ノ城などの別名があります。
永禄12年(1569)、中国地方の毛利家が城を築いた事から始まり、高橋鑑種や毛利勝信が居城としました。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで徳川家が勝利すると、細川家を移封します。細川忠興は7年かけて唐造の天守閣を築城し、城下町も紫川で東西に分け、川の西を侍町、東を町人や下級武士の町としました。

細川家が熊本に転封されると、譜代大名の小笠原家が居城とします。以降、明治時代になるまで小笠原家による統治が続きました。天保8年(1837)、天守閣が焼失します。この天守閣は戦後、種々の資料を基に藤岡通夫により設計され、コンクリート構造で復元した物が今日の天守閣となります。

現在の天守閣は五階建て、エレベーターも設置されており、最上階からは小倉の町を一望できるスポットです。 また秋には北九州小倉城祭りを行うなど、今日では市民の憩いの場所として親しまれております。

熊本城

熊本城は、肥後国守護菊池氏の一族が隈本城を築いたことから始まりとされます。
その後、豊臣秀吉の時代に入ると佐々成政が経営を行いますが一揆が起こり、成政は秀吉により罰せられました。その後に入ったのが加藤清正です。清正は隈本城のほど近い所に新たに城を築いて熊本城を建てました。清正の亡き後、清正の子である加藤忠広が跡を継ぎましたが、その経営手腕を疑問視され加藤家は幕府により取り潰されました。

その加藤家の後に入ったのが細川家です。細川家は熊本城の改修を明治時代まで続けました。ところが明治に入り、新政府と西郷隆盛とが戦った西南戦争の時、天守閣は爆発焼失します。天守閣はその後、昭和35年(1960)に再建され今日に至ります。

熊本城では毎年、春と秋に「隈本城お城まつり」を行い市民に親しまれています。特に熊本にまつわる歴史や文化を身近に感じる企画が用意されています。春はYOSAKOIや熊本おもてなし武将隊を中心に全国の武将隊が集結する「戦国パーク武士の魂(もものふのちから)」を開催、秋は太鼓響演会をはじめ、古武道演武会、食のイベント、名月観賞を行い市民が楽しみます。

細川忠利の年表

西暦 和暦 年齢 出来事
1586年 天正14年 0歳 豊前国で生まれる(細川忠興と細川ガラシャの子)
1600年 慶長5年 14歳 関ヶ原の戦いの後、細川家の嫡子として家督継承の準備を進める
1619年 元和5年 33歳 父・細川忠興の隠居により細川家の家督を継ぐ
1632年 寛永9年 46歳 肥後熊本藩主となる(加藤家改易後)
1632年 寛永9年 46歳 熊本藩の藩政を整備し藩の基盤を築く
1641年 寛永18年 55歳 死去
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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。