島津義久三州の総大将
島津義久
戦国時代、都があった近畿を中心に各地で戦乱が起きました。そんな中、戦乱を勝ち抜き地域を統べるものが台頭。関東の北条家、中国の毛利家、東北の伊達家、四国の長曾我部家などです。同様に九州でも地域を統一しかけた大名がいました。島津家です。島津義久は島津4兄弟を中心に結束して薩摩国から興り、九州を統一しようと試みます。今回は島津4兄弟の1人、島津義久を見ていきます。
薩摩の島津家
島津氏は平安時代の末期、藤原五摂家の1つ近衛家が所有していた島津庄(現在の宮崎県、鹿児島県にあった日本最大の荘園)で現地の管理を行っていた官吏として始まります。
鎌倉幕府が出来る直前、源頼朝から薩摩国(現在の鹿児島県西部)・大隅国(現在の鹿児島県東部)・日向国(現在の宮崎県)の3国の地頭に任じられ、幕府成立後には正式に島津姓を名乗り守護職に任じられました。
余談ですが島津氏は、武士が統治を始めた鎌倉幕府の成立期から存在し、明治時代に武士の世が終わるまで一つの場所を統治し続けた恐らく唯一の大名、氏族です(この他に佐竹氏も鎌倉時代から明治時代まで存在しましたが江戸時代初期に常陸国から出羽国へ国替えとなっています)
島津家の成立以降、鎌倉時代、南北朝時代を通して島津家内部で島津氏や他の国人衆との反目、内乱が続きました。そして室町時代後期、島津氏一族の中から伊作家の島津忠良とその子貴久が台頭し島津家を纏め上げていきます。このような中で島津貴久の嫡男、島津義久は誕生しました。
義久の幼少時と三州(鹿児島、宮崎県)統一
島津義久は天文2年(1533)、島津貴久の嫡男として伊作城に生まれます。幼名は虎寿丸。
子供の頃は大人しい性格でしたが、島津家中興の祖、祖父の島津忠良は義久の人を纏める性格を見抜き期待していました。
元服した義久は、祖父忠良の諱と同じ又三郎を名乗り、将軍足利義輝からの偏諱である義の一字を貰い受け義辰、後に義久と改めました(以下、義久で統一します)。
天文23年(1554)、薩摩、大隅国の中の国人衆との戦いに参加し初陣を果たします。永禄9年(1566)、父の貴久が隠居する事により、島津家16代当主となりました。元亀元年(1570)まで薩摩国の国人衆の統一に従事して統一、元亀4年(1573)に大隅国の国人衆を帰属させて大隅国を纏め上げます。島津義久は40歳で乱れていた薩摩国、大隅国を纏め上げました。
島津家が薩摩国を平定する元亀元年(1570)より前の話です。薩摩国、大隅国、日向国、肥前国(現在の熊本県)が接する真幸院の所有を巡って、島津家は日向国の伊東家と対立していました。
元亀3年(1572)、伊東家は3000の軍勢で島津家領に侵攻、島津家は義久の弟、島津義弘を大将とした300で迎え撃ちます。島津義弘は伏兵などの作戦で迎え撃ち、伊東家を壊滅させ追い返しました(木崎原の戦い)。
こうして島津家に大敗した伊東家は天正4年(1576)、次々と家臣が離反し島津家に鞍替えし、当主の伊東義祐は日向国の北隣、豊後国の大友宗麟を頼り逃げました。ここに島津義久は、薩摩、大隅、日向国の3国、三州統一を成したのです。
耳川の戦い、そして九州南部を影響下に
日向国の伊東義祐が大友宗麟の下に逃れました。
天正6年(1578)、伊東義祐を保護した大友宗麟は日向国へ侵攻します。宗麟自身は日向国北部務志賀(現在の延岡市)に留まり、田原紹忍を総大将とした4万3千の兵を南下させます。
これに対して日向国を併呑した島津家は高城(現在の宮崎県児湯郡木城町にあった城)に末弟の島津家久を中心とした兵3千が籠ります。城に籠る島津家と高城を囲む大友家は一進一退の攻防戦を続けます。島津義久は薩摩国、大隅国から兵2万を率い出陣、奇襲を掛けるなどして大友家を破りました。大友家は主だった武将が次々と討たれ退きます。島津家は日向国を大友家から守りましたが、それだけではありませんでした。
この戦いの経緯を見て、大友家が守護を務める肥後国(現在の熊本県)の国人衆が島津家に鞍替えしました。天正9年(1581)には球磨地方の相良氏が降伏、これを帰順させ肥後国の大部分を影響下に置きます。島津義久は着々と九州南部を勢力下に置いていきました。
ところで、この肥後国に影響力を置く少し前の話。
天正8年(1580)島津家は大友家と和睦を結びます。この和睦は畿内(近畿地方)を中心に覇権の拡大を続ける織田家が関わっていました。
近畿を統一した織田信長は中国地方の毛利家を攻めようとしていました。そこで九州北部の大友家に対して毛利家を攻めさせ、東西から毛利家を挟み撃ちにしようとします。ですが大友家は島津家と争っている最中でした。そこで織田信長は島津義久と話し合い、義久は織田家の覇権を認め、信長は島津家の領土を認める事で話が付きました。島津家は大友家と和睦を結ぶ事になります。しかし島津家は各地に侵攻を続けます。
沖田畷(おきたなわて)の戦いと九州統一
大友家が耳川の戦いで衰退すると、肥前国(現在の長崎県佐賀県)の龍造寺家が勢力を伸ばしてきます。島原半島を中心に領していた有馬家は龍造寺家から圧迫を受け、島津家に助力を求めました。
こうして天正12年(1584)、島津義久は弟の家久を総大将とし5000人余りで2万5千人の龍造寺家と戦いました、沖田畷の戦いです。この戦いで龍造寺家の当主、龍造寺隆信を始め一門や有力な家来を討たれ、龍造寺家は島津家に屈しました。
そして九州で残ったのは本領の豊後国に籠る大友宗麟だけとなります。島津義久の九州制圧は目前でした。大友家と和睦を結ぶに至った織田信長は2年前に本能寺で自害しています。和睦は実質的に白紙へと戻っています。島津家は大友家を攻める事にしました。
風前の灯となった大友宗麟は新たに天下人となりつつあった豊臣秀吉に援軍を頼みます。
義久、豊臣秀吉に降伏
天正13年(1585)、応援の要請を受けて秀吉は四国の長曾我部家を中心とした豊臣家の先陣を九州に派遣します。ところが島津家はこれを迎撃し(戸次川の戦い)、追い返しました。
そこで天正15年(1587)、日本各地からの軍勢を作り上げ豊臣家の本軍が侵攻してくると島津家は撤退し、九州各地の国人衆は豊臣家に降ります。
義久は剃髪し秀吉に降り、島津家は豊臣家の臣下となりました。
豊臣秀吉は島津家の領地として薩摩、大隅国と日向国の一部を安堵しました。
この豊臣政権下の時代、豊臣家の窓口の1つが石田三成でした。この関係が関ヶ原の戦いで島津家が石田家に付いた原因の1つなります。
また島津家のうち豊臣家との窓口は弟の島津義弘でした。この為、豊臣家は島津義弘を島津家当主として認識し、義久と両体制に移行していきます。これを「両殿体制」と呼ばれています。
天正20年(1592)豊臣秀吉は朝鮮へ出兵します。島津家もこの出兵に動員され、島津義弘を大将として大いに働きました。慶長3年(1598)、秀吉が亡くなるまで朝鮮出兵が続き島津家は戦後に恩賞として5万石を貰い受けます。
晩年
豊臣秀吉が亡くなると武家で最高位の官位を持つ徳川家康が台頭してきました。家康は石田三成と関ヶ原の戦いで衝突、その結果勝利し天下を手中にします。
この時、島津家は島津義弘が兵を率いて石田方に付きました。そして関ヶ原の戦いは徳川家勝利で終わります。負けた島津家は徳川家に本領安堵を訴え、結果的に島津家の行動は義弘の単独行動で、島津家には責はなくすべて不問に付されました。こうして島津義久は本領を安堵されたことで隠居を決意します。
慶長7年(1602)正式に当主の地位を島津忠常に譲り、島津義久は隠居します。しかし義久、義弘、忠恒と3者が島津家の指導的な立場を持ったことから「三殿体制」という状況が発生し長く続きました。そして慶長16年(1611)島津義久は隠居場であった国分城(舞鶴城)にて亡くなります、享年79。
祖父の島津忠良が「三州の総大将」と評価した島津義久は薩摩、大隅、日向国にとどまらず九州すべての支配目前にまで迫りました。そのような人を纏める事に長けた義久は戦国時代でも有数な人物でした。
島津4兄弟
九州を手中に収めかけた島津家。この島津家の躍進には島津貴久の子供達「島津4兄弟」の結束がありました。そこで4兄弟について簡単に見ていきます。
- 長男…島津義久
- 長男の義久は、人を纏め結束を促す人物でした。4兄弟の祖父、島津忠良は「義久は三州(薩摩・大隅・日向)の総大将たるの材徳自ら備わっている」と評し、その評価通り三州を治め躍進の切掛けとなりました。
- 次男…島津義弘
- 次男の義弘は、戦国でも1、2を争う勇猛さを持っていました。祖父忠良は「義弘は雄武英略を以て傑出している」と評し、常に配下の者と戦場にありました。朝鮮の役においては、その武勇で朝鮮の軍勢より「鬼石曼図(おにしまず)」と恐れられたと日本の記録に残っています。
晩年、兄の義久に男子がいなかった事から義久の次の島津家17代当主という意見があります。義弘の子供(忠恒)が義久の養子となり島津家当主となりましたが、島津家を率いてきた義久、新たな当主となった忠恒、忠恒の父である義弘、という3者に溝ができしこりを残しました。 - 三男…島津歳久
- 三男の歳久は、戦の現場に立つことで義久や義弘を助けました。祖父忠良は「歳久は始終の利害を察するの智計並びなく」と評し、聡明さを持っていたようで豊臣秀吉を脅威と認識した島津家でも数少ない1人でした。
しかし秀吉が島津家討伐に動いた時、秀吉の脅威をいち早く説いた歳久が最後まで抗戦を主張し、更に秀吉の乗る籠に矢を射かけるなどした事から、秀吉から憎まれました。これにより島津家と豊臣家との和睦後、歳久は自害してしまいます。
歳久の家系は娘婿の子供が継ぎ、明治時代まで日置島津家として残ります。 - 四男…島津家久
- 四男の家久も又、抜群の武勇の持ち主でした。祖父忠良は「軍法戦術に妙を得たり」と評し家久の挙げた功績は、勇猛さを誇る義弘さえも嫉妬するほどでした。
この家久だけは他の兄弟とは違う母親(異母兄弟)の為に不遇を得ていたようですが、義久はこの弟を重く用い家久もその期待に応えました。しかし豊臣秀吉との和睦が成立後に急死してしまいます。
この家久の子供も勇猛でした。島津家は関ヶ原の戦いにおいて敗れた為、脱出の為の敵陣突破を行います。この時、大将の島津義弘の身代わりとなって亡くなったのが家久の長男島津豊久でした。
島津義久について
- 島津義久の像
- そして秀吉の待つ場所に訪れ降伏を申し出ました。鹿児島県の泰平寺公園にはその際の銅像が置かれています。この場所は、島津義久が降伏した場所で頭を丸め降伏を申し出る島津義久とそれを受ける豊臣秀吉の像があります。
- 内城
- 島津家は嘉慶元年(1387)、現在の鹿児島市清水町に清水城を築き居城としました。それから150年間、島津家の本拠として清水城は使われていましたが、徐々に手狭となってきました。
そこで天文19年(1550)、島津義久の父島津貴久が海岸に近い場所(現在の鹿児島市大龍町)に城を築きます、内城です。内城は古くからの屋形作りの平城であったと考えられています。内城の名前の由来は国主の居城、「御内」から転じて内城になったものと考えられています。
貴久の後を継いだ義久も内城を居城としました。
ところが文禄4年(1595)、豊臣秀吉の圧力により富隈城に居城を移転しました。
慶長7年(1602)、島津忠常(義久の弟、島津義弘の子で義久の後を継ぎ島津家当主となった)が鹿児島城に移ります。
内城の跡地には南浦文之が島津貴久、義久の菩提寺である大龍寺を開山しました。大龍寺は明治の廃仏毀釈により廃寺となり、小学校が建てられました。
現在では小学校の敷地内に内城時代から使われていたとされる手水鉢及び庭石が残る程度で碑や説明板もありません。内城時代からあったとされる蓑懸松の説明板があり、この説明板が城について唯一示すものとなっています。 - 鹿児島城
- 鹿児島城は現在の鹿児島市城山町に建てられた城で別名を「鶴丸城」と呼ばれています。別名の鶴丸城は、屋形の形状が鶴の羽を広げた形から呼ばれたそうです。
関ヶ原の戦いで敗れた島津家は、徳川家の脅威に対抗する為に上之山城の麓に新たに城を築きました、鹿児島城です。
上山城は山城でしたが、新たに築いた鹿児島城は本丸、二ノ丸、出丸からなる平城で、上山城と合わせて平山城とも考えられています。慶長6年(1601)に築城が開始し、慶長9年(1604)に完了、それ以降明治時代が始まるまで島津家の居城となります。
現在は遺構として石垣や堀、出丸跡、大手門の石橋が現存しています。また本丸跡に鹿児島県歴史資料センター黎明館、二の丸跡には鹿児島県立図書館、鹿児島市立美術館、鹿児島県立博物館などが建っています。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。