大洲城愛媛県大洲市

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大洲城DATA
別称 比志城、地蔵ヶ嶽城、大津城
築城 1331年
住所 愛媛県大洲市大洲903
電話番号 0893-24-1146
開館時間 午前9時~午後5時(入城は16時30分まで)
休館日 年中無休
登閣料 大人550円/小人220円

大洲城は鎌倉時代末期、伊予国守護宇都宮豊房の築いた地蔵ヶ岳城に始まると言われる。

大洲城への交通アクセス
JR「伊予大洲」駅から徒歩約25分。

HISTORY 市民の力によって木造で復元された大洲城

大洲城は、愛媛県大洲市にある平城です。大津城・地蔵が岳城など数多くの別名を持つこの城は、第二次世界大戦後初めて木造で天守閣が復元されました。そんな大洲城の歴史を紐解いていきましょう。

江戸時代以前の大洲城
大洲城は、鎌倉時代末期に守護として同地に赴任した伊予宇都宮氏の祖、宇都宮豊房が築いた城が前進と言われています。当初の築城場所は肱川と久米川の合流点にあたる地蔵ヶ岳に築城したため、地蔵ヶ岳城と呼ばれました。伊予宇都宮氏は、その後国人として二百年以上大洲の地を支配します。しかし、永禄10年(1567年)に安芸国の戦国大名である毛利氏の伊予国出兵の際に、領地に攻め込まれて降伏しました。伊予宇都宮氏はその後土佐国を治めていた戦国大名、長宗我部元親と通じた家臣によって大洲城(地蔵ヶ岳城)を追われます。
その後、大洲の地は豊臣秀吉の家臣である小早川隆景によって天正13年(1585年)に再び平定され、最終的に彼が35万石で伊予国の大名となりました。なお、小早川隆景は毛利元就の息子であり、その子どもが関ヶ原の戦いで西軍を裏切ったことで有名な小早川秀秋です。
しかし、小早川隆景は数年後に筑前に移封されると伊予国は戸田勝隆に与えられます。この国替えは領民にとって不評だったようで、領主に反発するように一揆が起きています。戸田勝隆は、文禄3年(1594年)に朝鮮から日本に帰国する途中で病死しました。
文禄4年(1595年)、新たな国主として藤堂高虎が国入りします。藤堂高虎は豊臣秀吉の家臣でありながら彼の死後すぐに家康に接近して親交を深め、外様大名でありながら家康の側近になったという人物です。また黒田孝高、加藤清正と共に築城3名人の1人にも数えられています。藤堂高虎は、大洲城を近世城郭として整備し、現在復元されたような姿にしました。
江戸時代の大洲城
江戸初期の慶長14年(1609年)に淡路の洲本から脇坂安治が伊予国に移封されます。そのころの大洲は、伊予を南北につなぐ大洲街道・宇和島街道の結節点となり、また東には四国山脈を抜けて土佐国に出る街道も通っていました。つまり、四国における交通の要所だったのです。藤堂高虎はこの点に考慮して、彼を家康に後釜として推薦したと言われています。
大洲城の改築は脇坂安治が統治した時代も続けられ、天守閣なども建築されました。 また、この時代に地名が旧名の大津から大洲へと変更されます。 元和3年(1617年)に伯耆米子から6万石で加藤貞泰が移封され、以後加藤家が明治維新まで大洲の地を治めました。
明治以降の大洲城
明治になると、政府の廃城令によって城の建物はほとんど取り壊されます。しかし、地元住人が保存を望んだため、本丸の天守と櫓は残されましたが、明治21年(1888年)天守と櫓は老朽化などを理由に取り壊されました。
昭和32年(1957年)戦争を耐えた台所櫓、高欄櫓、苧綿櫓、三の丸南隅櫓が重要文化財に指定されます。それをきっかけに昭和34年(1959)~昭和45年(1970年)にかけて苧綿櫓など現存する建物の解体修理が順次すすめられていきました。
そして平成6年(1994年)、天守閣の復元プロジェクトがスタートします。大洲城は江戸時代初期に大改築された城には珍しく図面などの資料が現存していたほか、明治初期に撮影された写真も残されていました。
通常、復元される天守閣は強度や防火の面から鉄筋コンクリートで造られますが、大洲城は専門家らによる伝統工法を用いた技術によって、四層四階の天守が木造で再建されました。 木造で再建された天守は戦後初めてであり、復興あたり市民からは多額の寄付が行われています。完成までの年月は実に10年、その過程は大洲城の公式ホームページで見られます。
現在の大洲城は広く一般に公開されているだけでなく、文化財活用の一環として城に泊まることができます。「大洲城キャッスルステイ」と名付けられたこの企画は、城主の入城を甲冑を着て再現できたり伝統芸能を鑑賞できたりする盛りだくさんなもので、歴史ファンはもちろんのこと外国人観光客にも大人気です。
まとめ
大洲城は鎌倉時代から続く長い歴史を持ち、築城の名人藤堂高虎が大改築し、平成の時代に当時の技法で蘇った唯一無二のお城です。周辺には新谷藩陣屋跡の麟鳳閣などの史跡もあり、レンタサイクルなどで巡ってみるのもおすすめです。

大洲城と関連する人物記を読む

藤堂高虎多数の主君に仕えた築城の名手
藤堂高虎は弘治2年(1556年)、近江国(滋賀県)犬上群藤堂村において、藤堂虎高の次男として誕生しました。幼名を与吉といいます。父の虎高は、近江鯰江城主だった三井乗綱の次男として生まれますが、若い頃は
藤堂高虎

大洲城を藩庁とする、大洲藩の歴史

大洲藩多数の有名学者を輩出した
大洲藩は、愛媛県大洲市から伊予市にかけての一帯を治めた藩です。築城の名人と言われた藤堂高虎を初代藩主とし、脇坂家を経て加藤家が幕末まで藩を治めました。坂本龍馬が運用した蒸気船いろは丸を所有した藩として
大洲藩
大洲藩DATA
藩庁 大洲城
旧地域 伊予国大洲
石高 6万石
譜代・外様 外様
主な藩主 脇坂家、加藤家
推定人口 9万3000人(明治元年)

大洲城、木造復元された「泊まれる」天守

愛媛県大洲市のシンボル・大洲城は、標高約40mの小丘にある平山城です。江戸時代に建てられた4棟の櫓が現存しているほか、平成16年(2004年)には4層4階の天守が木造復元されました。日本初の「キャッスルステイ」が可能な城としても知られています。

大洲城
大洲城の歴史
大洲城は鎌倉時代末期の元弘元年(1331年)に宇都宮豊房が築いた地蔵ヶ嶽城が始まりだとされています。永禄11年(1568年)、毛利氏の伊予出兵で宇都宮氏は毛利・河野氏の連合軍により敗れ、大洲城は河野氏方の武将・大野直昌の預かりになりました。
その大野氏も羽柴秀吉の四国平定の際に秀吉方の小早川・吉川連合軍に敗退します。小早川隆景が伊予国(現在の愛媛県)に入ると大洲城は支城になりました。
天正15年(1587年)には秀吉の家臣・戸田勝隆が宇和・喜多郡16万石で入城。勝隆が病死したあとは藤堂高虎が入りました。このころ城は近世城郭として整備され始めます。
慶長14年(1609年)、大洲城には淡路国洲本(兵庫県洲本市)から脇坂安治が入ります。どうやらこのあたりに天守が建てられたという説が有力で、安治が洲本から天守を持ってきたという説もあります。また、このころ城名が従来の「大津」から「大洲」に変更されたと推定されています。
元和3年(1617年)に安治が信濃飯田(長野県飯田市)に転封されると、代わって伯耆国米子(鳥取県米子市)から加藤貞泰が6万石で城主となり、以後明治時代になるまで加藤氏が同地を治めることになります。
明治維新後は廃城令などによりほとんどの建物が破却されましたが、天守や櫓などの一部の建物は保存されました。しかし、天守は老朽化などにより明治21年(1888年)に解体されてしまいます。現在の天守は古写真や当時の資料をもとに平成16年(2004年)に木造復元されたものです。また、台所櫓、高欄櫓、苧綿櫓、三の丸南隅櫓については江戸時代から残されており、昭和32年(1957年)に重要文化財に指定されています。
大洲城の見どころ①木造天守
大洲城の天守は4層4階の層塔型・複合連結式天守です。天守は明治時代まで残されていたため、明治期に撮影された写真や、「天守雛形」と呼ばれる江戸期の木組み模型など、第一級の史料が豊富に残されていました。当初は鉄筋コンクリートでの復元も検討されましたが、こうした史料の多さや地元の人々の熱意、専門家の綿密な調査や職人たちの匠の技により木造復元が叶ったのです。復元には約10年を費やす大事業でした。なお、戦後に木造復元された天守は大洲城が初めてです。
天守の内部は中央に通し柱が2本あり、1階と2階は吹き抜け構造になっています。吹き抜けがある天守を実物で見学できるのは大洲城だけ。1階部分から上を眺めると精緻な木組みを眺めることができます。
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大洲城の見どころ②江戸時代の4つの櫓
大洲城の台所櫓、高欄櫓、苧綿櫓、三の丸南隅櫓の4棟の櫓は江戸時代に地震や火事などで失われており、全て江戸時代後期に再建されたものです。城内で最も古いのが明和3年(1766年)に再建された「三の丸南隅櫓」。2層2階の櫓で外部の両端に石落しを備えています。
華やかなのが2階に縁と高欄のある「高欄櫓」で万延元年(1860年)に再建されたもの。「台所櫓」は安政6年(1859年)再建のもので、内部には土間があり、煙出し用の格子窓が設けられています。2つの櫓は渡櫓で天守へと続いています。「苧綿櫓」は天保14年(1843年)の再建で、石落しに格子窓があります。
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大洲城の見どころ③大洲藩鉄砲隊の公開演習
大洲城では毎月第3土曜日、本丸で大洲藩鉄砲隊による火縄銃の公開演習を実施しています。公開演習の見学は無料です。甲冑など当時の装束に身をまとった隊員たちが火縄銃を撃つ姿は見ごたえがあります。
このほか大洲城では観光列車「伊予灘ものがたり」が肱川の鉄橋を通過する際、大洲城からのぼり旗を振って歓迎する「歓迎旗振り」を実施しています。観光客参加型のイベントで、毎週土日と祝日に無料で参加できます。加藤家の家紋をあしらったのぼり旗を振って楽しみましょう。(※写真は大洲城提供)
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大洲城に泊まる「キャッスルステイ」
大洲城では春と秋、復元天守の一室に宿泊できる「大洲城キャッスルステイ」を実施しています。加藤貞泰が大洲入りした様子を追体験できるほか、夕食では高欄櫓で貞泰時代の献立を参照した御膳料理を楽しめます。このほかオプションで花火や舟遊びなども可能。城主のように過ごせる特別な体験ができると人気です。(※最初2枚の写真は大洲城提供)
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大洲城のフォトスポット
大洲城を撮影するなら、肱川を挟んだ河原からがおすすめ。堰の少し右手の河原から撮影すると、小丘の上にそびえたつ城が綺麗に入ります。また、三の丸南隅櫓から大洲城を撮影するのもおすすめです。
大洲城の見どころ13 大洲城の見どころ14 大洲城の見どころ15
栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。