酒井忠次徳川四天王の筆頭

酒井忠次

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人物記
名前
酒井忠次(1527年〜1596年)
出生地
愛知県
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岡崎城

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吉田城

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長篠城

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戦国の世を生き抜き、関ヶ原の戦いで石田三成を破って天下を取ったのは徳川家康です。そんな徳川家康は、幼少の頃苦労を重ね、若い頃も織田信長と同盟を組むなど、なかなか主役になれませんでした。そんな三河武士に支えられた徳川家康には、特に功が厚かった徳川四天王と呼ばれる家臣がおり、筆頭に挙げられるのが酒井忠次です。今回は、酒井忠次の生涯についてみていきたいと思います。

酒井忠次の生まれと青年期

大永7年(1527)、徳川氏の前身・松平氏の譜代家臣だった酒井忠親の次男として三河額田郡井田城(現在の愛知県岡崎市井田町城山公園付近)で生まれました。元服後、徳川家康の父・松平広忠に仕え、酒井小五郎、後に左衛門尉と名乗ります。

竹千代(徳川家康)が今川義元への人質として駿府に赴くことになった時、竹千代に従う家臣の中では酒井正親に次ぐ年長者(当時、23歳)として同行することになります。

この後、松平元信(徳川家康)の配下として仕え、弘治年間の初期頃より福谷城に住むことになりました。弘治2年(1556)、柴田勝家に2,000騎で福谷城を攻められた際、忠次は城外に出て戦い、激しい攻防の末、勝家を敗走させるなど、当時から高い武勲を見せていました。この福谷城攻防については、徳川家康の屈従時代の輝かしい武勇譚として『東照軍艦』『武徳大成記』『家忠日記』『大久保忠勝譜』『阿部忠政譜』『御年譜』『徳川実紀』など徳川家に残されている記録類の多くに載るほどだったとされています。

永禄3年(1560)5月の桶狭間の戦いの後、徳川家の家老となり、永禄6年(1563)の三河一向一揆では、酒井忠尚を始め酒井氏の多くが一向一揆に与したのに対し、忠次だけは家康に従いました。

永禄7年(1564)には吉田城攻めで先鋒を務め、守将の小原鎮実を撤退させて、無血開城によって城を落とす戦功を立てます。その褒賞として戦の後、吉田城主となっています。
これにより、忠次は東三河の旗頭として三河東部の諸松平家・国人を統制する役割を与えられるようになりました(西三河は石川家成)。

永禄12年(1569)末に甲斐国の武田信玄は今川氏真の領国駿河への侵攻を行いますが(駿河侵攻)、徳川氏は当初武田氏と同盟して今川領国の割譲を協定していました。忠次は武田方との交渉を担当するなど、重要な役割を果たしています。

壮年期から晩年まで

元亀元年(1570)の姉川の戦いでは姉川沿いに陣取り、小笠原信興の部隊と共に朝倉軍に突入して火蓋を切る役を果たします。また、徳川家康の生涯の中でも大きなピンチの一つ、元亀3年(1573)の三方ヶ原の戦いでは右翼を担い、敵軍の小山田信茂隊と激突し、打ち破っています。

その後、天正3年(1575)の長篠の戦いでは分遣隊を率いて武田勝頼の背後にあった鳶巣山砦からの強襲を敢行します。鳶巣山砦を陥落させて長篠城を救出した上に、勝頼の叔父・河窪信実等を討ち取り、有海村の武田支軍も討つという大きな武功を挙げました。

家康からの厚い信任を受けていた忠次。天正7年(1579)に家康の嫡子・松平信康の件で織田信長からの詰問を受けた際は、大久保忠世と共に弁解の使者に立てられ、安土城に赴いています。

この際、忠次は信康を十分に弁護できず、信康の切腹を防げなかったと言われています。しかし、この信康切腹の通説に関しては不自然な点や疑問点も多く残っており、『安土日記』(『信長公記』諸本の中で最も古態をとどめ信憑性も高いもの)や『当代記』にあるように信康の切腹は家康の意思であるという説が近年では有力となっています。
それを裏付けるように以後も家康の重臣として仕え続けます。

天正10年(1582)6月2日に起きた本能寺の変の後、家康は信長が討たれた後に空白地帯となった武田遺領の甲斐・信濃の掌握を図ります(天正壬午の乱)。同年6月27日には忠次を信濃へ派遣して信濃国衆の懐柔を図りました。忠次は奥三河・伊那経由で信濃へ侵攻しますが、諏訪頼忠や小笠原貞慶らの離反によって失敗します。
また天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、羽黒の戦いで森長可を敗走させるなど、家康の主な戦いには全て参加していきました。

天正13年(1585)に同じく家康の宿老であった石川数正が出奔してからは家康第一の重臣として扱われ、天正14年(1586)10月24日に家中では最高位の従四位下・左衛門督に叙位任官されています。
天正16年(1588)10月、長男の家次に家督を譲って隠居。隠居の要因は加齢もありましたが、眼病を患い、殆ど目が見えなかったからだとも伝わります。

京都におり、豊臣秀吉からは京都桜井の屋敷と世話係の女と在京料として1000石を与えられ、この頃、入道して「一智」と号したという逸話が残っています。慶長元年(1596)10月28日、京都桜井屋敷で死去。享年70。墓所は知恩院の塔頭・先求院に、墓は知恩院山腹の墓地内にあります。

酒井家の系譜

酒井氏は、その祖先をさかのぼっていくと、松平氏の祖となった親氏と兄弟だと言われています。(婚姻関係での兄弟という説もあります)

さらに安祥譜代と呼ばれる松平家中における中では、最古参の宿老なだけでなく、忠次も松平氏とは深い血縁関係を持っています。忠次の正室は家康の祖父・松平清康と夫人・於富の方の間の娘・碓井姫です。於富の方は清康の正室となる前は水野忠政の正室で、家康の母・於大の方の実母でもあります。そのため、忠次は家康にとっては父母双方の妹の夫、義理の叔父という関係です。この碓井姫との間に家次、本多康俊といった子が生まれ、特に家督を相続した家次は下総臼井藩3万石から越後高田藩10万石となり、子孫は最終的に出羽庄内藩17万石と譜代屈指の大身として重きを成すことになります。

また、この他に庶流が出羽で3藩を立藩。また、伊奈本多氏を継いだ康俊の系譜も幕末まで続いているなど、子孫は大いに繁栄したと言えるのではないでしょうか。

忠次が持っていた愛用の武具

酒井忠次は徳川家康より15歳年上でした。徳川四天王と呼ばれる4人(忠次の他に、本多忠勝・榊原康政・井伊直政)の中では最も古参でしたが、合戦では自ら先陣を切ることも多く、愛用していた槍を携え敵に向かっていく勇猛さを持っていました。

愛槍は通称「甕通槍」(かめどおしやり)です。合戦中、追い詰めた敵が水がめをかぶって隠れ、酒井忠次はその水がめごと敵を貫いた、という酒井家の言い伝えから「甕通槍」と呼ばれるようになったそうです。

甕通槍は現存しており、山形県鶴岡市の致道博物館に収蔵されています。室町時代、「山城国」(現在の京都府南部)で活動した刀工「三条吉弘」の作品で、細めの刀身をしています。

忠次の愛用品は槍だけではありません。愛刀「猪切」(いのししぎり)も現存しています。これは、徳川家康と狩りに出かけた際に猪を切ったことを機に、刀の柄の部分に「猪切」と金色で彫り入れたとされています。これは金象嵌(きんぞうがん)と呼ばれます。

井田城(いだじょう)

井田城は酒井家の居城です。酒井忠次の出生地でもあります。築城については、いつ、誰によってつくられたのかは不明ですが、徳川家康の祖先にあたる松平親忠(まつだいらちかただ)などが、井田城の周辺で加茂郡の土豪と争った「井田野合戦」の話が残っています。なんと100年近くも争いが続き、勝ち抜いた松平家はやがて天下を統一する徳川家康を輩出したことから、徳川の泰平の世につながっていくのです。

井田城の遺構は残念ながら現存していません。跡地は現在、城山公園として整備されており、平野を一望できる丘の上にあります。当時は見晴らしがよかったことが伺える立地です。

岡崎城(おかざきじょう)

岡崎城は、徳川家康が生まれた城であり、若かりし頃の家康にとって重要な城です。1452年(享徳元年)あるいは1456年(亨徳4年)に三河守護代であった西郷頼嗣(さいごうよりつぐ)によって明大寺あたりに築城されました。

その後、松平家の居城となり1531年(享禄4年)徳川家康の祖父・松平清康(まつだいらきよやす)が現在の位置に移しました。

徳川家康が今川家の人質として不在の間、酒井忠次をはじめとする三河武士団が留守を預かり、徳川家康の帰還後、岡崎城は重要な居城として現代まで伝わります。

岡崎城は、当時のままの建物は現存していません。1959年(昭和34年)に天守閣と井戸櫓、附櫓が鉄筋コンクリートで復元。1993年(平成5年)には大手門も再建されています。岡崎城跡を中心に整備された岡崎公園は、広大な敷地に史跡が多く残っており、歴史を今に伝えています。市民の憩いの場としても愛されています。

福谷城(うきがいじょう)

福谷城は、15世紀後半に原田右衛門太郎氏重(はらだうえもんたろううじしげ)によって築城されたと伝わっています。本丸を中心に5つの廓を持つ平山城で、1555年(天文24年)に当時今川家に仕えていた酒井忠次が中心となり、織田家の攻撃を防ぎました。

今川家滅亡後、織田家と松平家が同盟関係となったことで、福谷城は不要となり廃城されます。今では福谷城址は公園となっていて、建物自体は現存していません。

吉田城(よしだじょう)

吉田城は、1496年(明応5年)あるいは1505年(永正2年)に牧野古白(まきのこはく)により築城された「今橋城」が前身です。築城以来、牧野家、今川家、武田家、松平家が争奪戦を繰り広げ、争いの舞台となりました。1564年(永禄7年)、徳川家康が三河を平定。酒井忠次が吉田城主となります。酒井忠次は吉田城に新たな堀を築造しています。

吉田城は明治時代まで存続しました。吉田城の建物は現存していませんが、復元された鉄魯が吉田城のシンボルとなっています。

長篠城(ながしのじょう)

長篠城址は国指定史跡です。別名「扇城」「末広城」とも呼ばれる長篠城は、1508年(永正5年)、菅沼元成(すがぬまもとなり)によって豊川と宇連川の合流場所に築城されました。長篠城は断崖絶壁に立ち、2つの川を堀として利用する、まさに天然の要塞としてそびえ立ちます。交通の要衝でもあり、武田家と徳川家による争奪戦が繰り広げられてきた場所です。

1575年(大正3年)の長篠・設楽原の戦いの舞台となった長篠城ですが、酒井忠次は勇猛果敢に戦い、長篠城を救いました。

1576年(天正4年)、戦いで傷つき損壊した長篠城に代わり、城主・奥平信昌(おくだいらのぶまさ)は新しく「新城城」(しんしろじょう)を築城。居城が移され、長篠城は廃城となりました。

長篠城の遺構として、曲輪の跡や空堀と土塁などが残っている場所があります。城址には「長篠城址史跡保存館」が建ち、長篠の攻防に関する資料を数多く展示されています。長篠城を巡る戦いをより詳しく知ることができます。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。