伊東祐兵伊東氏中興の祖

伊東祐兵

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人物記
名前
伊東祐兵(1559年〜1600年)
出生地
宮崎県
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飫肥城

飫肥城

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戦国時代、東海地方や機内では「京都に上洛し、畿内を抑えることが天下統一のひとつの指標」とされていました。同じ頃、九州の地では激しい争いが繰り広げられていました。大友氏や島津氏なとど戦い、いったんは没落した伊東家を復活させた中興の祖として知られる伊東祐兵が現れました。戦国の世から豊臣秀吉の天下、そして関ヶ原の戦いまで駆け抜けた伊東祐兵の生涯について紹介します。

日向伊東氏とは

伊東氏は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて伊豆国田方郡伊東荘(現・静岡県伊東市)を本貫地としていた豪族でした。藤原南家・藤原為憲の流れを汲む工藤氏の一支族で、一族である工藤祐経の子孫が日向国へ下向して戦国大名の日向伊東氏・日向国飫肥藩藩主となっています。伊東祐親の子孫が尾張国岩倉に移り住み、後に尾張伊東氏・備中国岡田藩藩主にもなりました。

伊東氏と日向国の関係は、「曾我兄弟の仇討ち」で知られる工藤祐経の子伊東祐時が、鎌倉幕府から日向の地頭職を与えられて庶家を下向させたことが始まりです。
やがて田島伊東氏、門川伊東氏、木脇伊東氏として土着し、土持氏など在地豪族との関係を深めながら日向に東国武士の勢力を扶植していきました。

伊東氏の本家が実際に日向を支配するようになるのは、建武2年(1335)足利尊氏から命じられて日向に下向した伊東祐持(すけもち)からになります。
祐持は足利尊氏の妻・赤橋登子の所領であった穆佐院を守るため、日向都於郡300町を賜ったと伝わっています。

祐持は国大将として下向した畠山直顕に属して日向国内の南朝方と戦います。征西府の拡大、観応の擾乱など情勢が変わるたびに国内は混乱しますが、伊東氏は基本的に北朝方の立場を守り、幕府に忠節を尽くしました。息子の祐重(すけしげ)も将軍・尊氏から偏諱を受けて伊東氏祐(うじすけ)と改名しているほどです。

室町〜戦国時代に、伊東氏は守護の島津氏と抗争を繰り返しながら次第に版図を広げていきました。天正5年(1577)、島津氏の侵攻に耐えられなくなった義祐は日向を追われ、瀬戸内などを流浪して堺で死去。伊東氏は一時的に没落します。

家臣の山田宗昌が大友氏に客将として入り、栂牟礼城などで何度も島津軍を破るなど多くの戦功を立て、義祐の三男・伊東祐兵は中央に逃れて羽柴秀吉の家臣となり、天正15年(1587年)の九州平定で先導役を務め上げた功績を認められ、日向に大名として復帰を成し遂げました。

伊東祐兵の前半生と伊東氏の没落

永禄2年(1559)、日向国の都於郡城で、伊東義祐の次男として誕生します。(早世した嫡男も含めれば三男)幼名は虎熊丸。翌永禄3年(1560)に兄の義益が家督を継いで都於郡城主となり、父は隠居して後見になりました。

永禄11年(1568)、伊東氏四代にわたる5回目の攻撃により飫肥城を島津氏から奪うと、まだ幼い虎熊丸(祐兵)が飫肥城の城主となります。しかし翌年に、兄が病死。祐兵が家督を継いで、義祐が再び当主を代行するようになりますが、これを機に伊東氏の勢力が減退していきます。

天正5年(1577)、福永祐友・米良矩重ら家臣の謀反に呼応した島津氏の侵略により、義祐が佐土原を追われると、祐兵ら一族もこれに同行。戦国大名の大友宗麟のもとを頼って、米良山中から高千穂へ抜けて豊後国に退去しました。

天正6年(1578年)、宗麟は、義祐や孫・義賢のため、また日向国をキリスト教国にするという自身の大望で、日向国へ大軍で攻め入ります。しかし大友氏・伊東氏の連合軍は島津氏(島津家久、山田有信ら)に大敗を喫しました。

この敗戦で有能な家臣を多く失った大友氏は、家運が傾きます。このため合戦の発端ともいえる伊東氏一族は大友領内に居づらくなり、義賢と祐勝らを豊後に残して祐兵は義祐、正室の阿虎の方、河崎祐長・権助父子ら家臣20余人と共に、海を渡って伊予国の道後へのがれます。河野氏の一族の大内栄運(信孝)を頼りました。

一方、かつて伊東家に世話になり、伊東氏が日向国を一時退去した後、祐長から伊東家再興の祈祷を度々頼まれていた山伏の三部快永という者がおり、三部が播磨姫路城の普請を見物にいったところ、三部に日向の者かと聞く者がいました。

伊東家が島津家に国を取られ浪人して伊予河野家に寄宿しているというと、「イトウは伊藤か伊東どちらだ」と問うので、伊東であると三部が答えます。
同族であると意気投合した伊東掃部助の知己を得て、天正10年(1582)正月、掃部助が仲介して祐兵の主従20余名は羽柴秀吉に仕官することになります。

同10年6月、明智光秀と羽柴秀吉が争った山崎の戦いで祐兵は活躍。秀吉の命令に応じて首級を上げた恩賞として、金房兵衛尉政次の造る抛鞘の鎗を拝領しました。
さらに翌11年(1583)、賤ヶ岳の戦いにも従軍しています。

日向への復帰と最期

天正14年(1586)、秀吉が島津征伐を始めるにあたって祐兵は先導役として抜擢されます。黒田孝高(黒田官兵衛)に従って先陣に加わりました。豊前国の宇留津城攻めで軍功を挙げます。翌15年(1587)には豊臣秀長を大将とする軍に加わって日向国に入り、旧臣を集めて根白坂の戦いにも参加。ほどなく島津氏は降参しました。

九州平定戦の功績で、日向国臼杵郡・宮崎郡・清武・諸県郡・肥後国の八代郡、鷹巣守(米良山)の内に合計2,024町余の土地を与えられ、河内丹南から移封されました。祐兵は曽井城を修復してこれを主城とします。同年8月、秀吉より飫肥城も賜り、翌16年(1588)5月、飫肥城に入って旧領回復。8月、宮崎郡、那珂郡の内にさらに1,736町の土地を加増されています。

文禄3年(1594)に2万8千石余の所領を開墾して3万6千石に石直しし、文禄検地により確定。同4年(1595)正月に朝鮮で鷹狩りをしていて大虎を追い出し、家臣が火縄銃で射止めて名護屋城に献じて秀吉より書を与えられました。

慶長5年(1600)の会津征伐、関ヶ原の戦いでは、祐兵は大坂の屋敷で病に伏していて加わっていません。
西軍は執拗に勧誘し、「詐病ではないか」と疑いますが、島津義弘が病床に訪れて病が重いことを知って落涙、東軍に与していないと保証するも、大津城の戦いに兵を出すことに。
伊東与兵衛・平賀喜左衛門という2人の家臣を代理として30人を派遣して西軍に与することになりました。

一方で密かに家老の稲津重政に嫡男の祐慶をつれて領国に戻るように命じ、東軍に与させます。黒田孝高と協議して祐慶は3,000を率い西軍の高橋元種の所領だった宮崎城を攻めました。
伊東氏の東軍としての参加と貢献を認められ、戦後に家康から所領を保障されます。さらに西軍でまだ降参していない薩摩国の島津氏へ軍を進めるように命じられました。しかし、祐兵は同年10月11日に病死、享年42。嫡男の祐慶が継ぎました。

伊東祐兵の知略

文禄の役の時に伊東家家中に騒ぎが起こりました。
一緒に朝鮮に渡航していた義益嫡男の義賢を伊東家の総領に据えようという動きです。祐兵亡兄義益の娘を正妻としていたが、家督そのものは天正5年(1577)にこの義賢が継いでいました。祐兵はこの騒ぎを収めるために、甥の義賢を暗殺し騒動を収拾したとされています。

祐兵は大名の子息に生まれながらも苦労人であり、裸一貫で再起したことからも、時局を見通す目に優れていたとも言われています。
天下別れ目の関ヶ原の戦いの時は重病にかかり、病の床に伏せっていましたが、西軍に荷担すると見せながら、密かに東軍に内通し協力を約束していたところなど、立ち回りが日出生にうまい人物だと伝わります。

祐兵は表向き島津とともに西軍に荷担する向きを見せるも、不審に思った島津豊久が祐兵の邸宅を訪問し詰問されてしまいます。しかし、祐兵は自身の病気を理由に詰問をかわし、かえって豊久の同情を得た迫真の振る舞いを見せました。

その裏では密かに嗣子の祐慶を九州に派遣し、西軍方の宮崎城を攻め落とさせています。
結局祐兵は関ヶ原の後に42歳で没しますが、伊東家は徳川幕府から本領を安堵され、その領土は飫肥全域の5万7千石におよび、飫肥藩主として幕末まで続いています。

飫肥城(おびじょう)

飫肥城の築城は、宇佐八幡宮の神官の出で、日向の地に武士団として勢力を伸ばした土持氏が南北朝時代に築城したのが始まりと言われ、別名、飫肥院とも呼ばれていました。
その後、戦国の世になると島津氏の配下に置かれますが、伊東氏が侵攻して奪取。その後も島津氏と伊東氏の攻防が繰り広げられました。

江戸時代は伊東氏飫肥藩の藩庁として繁栄します。飫肥市街北部の丘陵に曲輪を幾つも並べた群郭式の平山城で、伊東四十八城の一つです。

戦後、1978年に大手門が復元されたほか、城内には御殿を模した歴史資料館が木造で建設されています。しかし、これらの建物は元の外観資料がないため、形は考証によるもので史実通りの復元ではありません。また、本丸跡には日南市立飫肥小学校が建っています。また、
NHK連続テレビ小説『わかば』のロケ地にもなりました。
平成18年(2006)4月6日、日本100名城(96番)に選定されています。

なお飫肥城下町(飫肥)は、昭和52年(1977)国(文部大臣)により九州・沖縄地方で最初の「重要伝統的建造物群保存地区」として選定されています(岡山県吹屋と共に、我が国で2番目に選定された2地区のうちの一つ)。
保存地区内には城下町時代の道路や地割が良好に保存され、石垣、土塀、生垣で囲まれた武家屋敷跡が残っており、地区内には飫肥城跡のほか、最後の藩主・伊東祐帰が住んだ邸宅である豫章館、振徳堂(藩校)、五百禩(いおし)神社、小村寿太郎生家などがあります。

飫肥城下まつり

秋の日南市を代表するまつりで、郷土芸能や武者行列などの市中パレードをはじめ、伝統の四半的(しはんまと)大会など、城下町の風情をたっぷりと味わうことができる2日間です。例年10月第3週の土・日曜に開催され、市民をはじめ多くの観光客などの人出で賑わいます。

土曜日は、午前11時にのろしが上がるのを合図として、城下の大手門へ早馬が馳せ参じます。その後、大手門前や城内の特設ステージ(飫肥小学校グラウンド)で郷土芸能や歌謡ショー等の市民が参加するステージイベントが行われます。
日曜日の本祭、一番のみどころはお昼12時から本町商人通りで行われる市中パレードです。侍大将、女武者、武者行列、泰平踊(たいへいおどり)等が16時30分ごろまで練り歩きます。

泰平踊は、折編み笠を目深にかぶり、羽二重熨斗目(はぶたえのしめ)を着流しに、白足袋白緒の草履姿。腰には朱鞘の刀に印籠という粋な元禄の武者姿で踊ります。飫肥藩主伊東氏が上方の歌舞伎踊りと地元の盆踊りを組み合わせ、そこに柔術、弓術など武芸十八般を折り込んだと言われています。所作はゆっくりと、踊る姿も美しく、重厚な印象の踊りです。

伊東祐兵の年表

西暦 和暦 年齢 出来事
1548年 天文17年 0歳 日向国の戦国大名・伊東義祐の子として生まれる
1570年代 元亀・天正年間 20代 島津氏の圧力により伊東氏が日向から没落
1587年 天正15年 39歳 豊臣秀吉の九州征伐に従い、旧領日向の一部を回復
1587年 天正15年 39歳 日向国飫肥藩主となる
1600年 慶長5年 52歳 関ヶ原の戦いでは東軍に属し領地を安堵される
1603年 慶長8年 55歳 死去
関係する事件
葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。