慶長の役秀吉の死で終わった朝鮮出兵・後編
慶長の役
天下統一後に中国(当時の明)を征服するために李氏朝鮮(現北朝鮮・韓国)に出兵した豊臣秀吉。天正20年(1592年)から文禄2年(1593年)までの「文禄の役」の後、再び朝鮮を攻めたのが慶長2年(1597年)から翌3年(1598年)、秀吉が死ぬまで続いた「慶長の役」です。「文禄・慶長の役」とまとめて語られることも多い朝鮮出兵ですが、今回は後半の「慶長の役」について、関ヶ原に続く影響までわかりやすく解説していきます。(「文禄の役」については別記事をご参照ください)
「文禄の役」を簡単に振り返る
文禄の役は、天下を統一した豊臣秀吉が明を見据えて朝鮮を攻めた戦いです。なぜ秀吉が明を攻めようとしたのかという理由については諸説あり、代表的なものとしては①織田信長の遺志を継ぐため②秀吉の功名心や名誉欲③大名たちの力を削ぐため④領土拡張のため⑤明との勘合貿易復活のため⑥アジアの植民地化をはかっていたヨーロッパ勢力に対抗するため、といったものがあります。
文禄の役は総勢25万人から30万人が参加しており、総大将は宇喜多秀家、総奉行は石田三成でした。朝鮮には小西行長や加藤清正、黒田長政、小早川隆景、毛利輝元などそうそうたる武将たちが渡り活躍しています。なお、徳川家康は「予備軍」で朝鮮には出兵していません。
釜山に上陸した日本軍は次々と朝鮮軍を破り、首都・漢城を陥落させます。李舜臣率いる水軍の活躍で物資不足に苦しめられることもありましたが、日本軍優位のまま平壌を陥落させました。なかでも加藤清正は朝鮮国の王子を捕縛したり、北上して満州のオランカイ(女真族)と戦ったりと活躍しています。
事態が動いたのは明の援軍が訪れてからです。文禄2年(1593年)1月。明の司令官・李如松が平壌を急襲し、日本軍は初めて大敗。平壌にいた小西行長は開城まで撤退しました。1月25日の「碧蹄館の戦い」では日本軍が明軍を破って大勝しますが、日本軍は物資不足に陥るとともに疫病が蔓延。一方の明軍も勢いを削がれてしまい、双方停戦ムードが漂い始め、和平交渉がスタートします。
慶長の役の原因は「偽りだらけの講和」
講和交渉は長きにわたって続きましたが、文禄2年(1593年)4月に一応の講和が成立します。交渉の担当者は、日本側は小西行長、明側は沈惟敬。この2名が文禄の役を終わらせようと、双方のトップに嘘の講和条件を伝えることにしたのです。つまり小西行長は豊臣秀吉に明が降伏したことを、沈惟敬は明に日本が降伏したことを伝えました。
小西行長と沈惟敬はお互い協力しあい、使節や書類の偽装まで行いました。沈惟敬は部下を明の勅使と偽って秀吉の下に派遣。明側が降伏したと考えていた秀吉は、当然強気で明に条件を提示します。条件は、①明の皇女を天皇に嫁がせる②勘合貿易の復活③双方の大臣が誓紙を交わす④朝鮮八道の半分を日本に割譲し、残りと漢城を朝鮮に返還する⑤朝鮮の王子と家老を日本の人質として差し出す⑥日本が捕虜にした朝鮮王子は朝鮮に返還する⑦朝鮮の重臣たちに日本に背かないよう誓約させる、というものでした。
そのまま秀吉の要求を提示すれば、明が納得しないことは明白でした。このため日本側は条件を勝手に変更し、小西行長の部下が明への使者として立ちます。明側からは「和議の証明に秀吉の降伏文書が必要」と言われたため、行長はさらにこれを偽造して明に提出。偽りの日本からの要求は、勘合貿易の再開と日本を冊封体制に入れて秀吉を藩王に認めてほしいというものでした。ちなみに朝鮮を攻めた理由は「明への取次を朝鮮が拒否したから」としています。
これに対し明側は日本が冊封体制に入ることを認め、秀吉に日本国王(順化王)の称号と金印を授けることを決定。しかし、勘合貿易の再開は拒否することに決め、正式な使者を秀吉に派遣しました。文禄5年(1596年)9月、秀吉と明の使者が会見した際に講和の際の嘘が明らかに!秀吉は当然激怒し、再び明攻めを決意します。なお、講和を主導した明の沈惟敬は帰国後死罪になりましたが、小西行長は石田三成や前田利家などのとりなしで一命をとりとめました。
慶長の役①朝鮮に14万人が再出兵
秀吉は明攻めをするため各武将に動員令を発出し、約14万人の兵が再び朝鮮出兵のために集められることになりました。慶長の役は小早川秀秋が総大将に就任。また、一番隊(先手)と二番隊は加藤清正と小西行長がそれぞれ2日交代で担うことが決まりました。このうち行長は和平交渉を偽った武将。一方の清正は文禄の役の際に戦働きで大活躍していますが、「講和を優位にするためには戦を続けるべき」と主張し、早期に講和を成立させたい行長と対立していました。その結果、行長の讒言とそれを支持した石田三成により、謹慎させられています。後に秀吉に弁明して許されていますが、行長、ひいては三成への怒りはかなりのものだったようです。
再出兵軍については、以下の武将が参加しています。
- 一番隊・二番隊
- 加藤清正、小西行長
- 三番隊~七番隊
- 黒田長政、鍋島直茂・勝茂、島津義弘、長宗我部元親、藤堂高虎、脇坂安治、蜂須賀家政など
- 八番および九番隊
- 毛利秀元、宇喜多秀家
このほか釜山浦城に総大将の小早川秀秋、安骨浦城に立花宗茂が在番衆(諸城の守備担当)として控えています。
慶長の役②序盤は日本軍が優勢、倭城を築いて防備を固める
豊臣秀吉による朝鮮再出兵の作戦は「全羅道を残さずことごとく成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ。」というものでした。全羅道というのは文禄の役の際、地元の抵抗や険しい地形などから日本軍が唯一制圧できなかった地域ですので、前回のリベンジということでしょうか。さらに作戦を実行した後は慶尚道の沿岸まで撤収し、城を築いて九州の大名を中心に城主を決め、兵を置くように指示。長期にわたり朝鮮で生活するため、城は慣れ親しんだ日本式の城(倭城)を築くよう命じています。そして城主以外は一度引き上げ、体制を整えて慶長4年(1599年)に大規模な再出兵をおこなう、という計画でした。14万の兵たちは計画に従い、対馬海峡をわたり次々と釜山に上陸、各地に散っていきました。
これに対し、朝鮮軍も日本軍を迎え撃つ準備を進めます。文禄の役で活躍した李舜臣は、講和交渉のさなかに日本軍を攻めたり、加藤清正の朝鮮上陸を阻止する命令に背いたりといった度重なる命令違反などにより罷免されたため、元均が朝鮮水軍の指揮権を握っていました。
そして7月、いよいよ日本軍と朝鮮軍の戦いが始まります。海戦がメインとなった漆川梁海戦は藤堂高虎らが率いる日本水軍が活躍。日本軍が圧勝し、元均は戦死しています。その後も日本軍は快進撃を続けていき、海上では再び地位を得た李舜臣が日本軍を苦しめますが、日本軍は9月までには当初の目標通り、全羅道と忠清道の制圧に成功。京畿道まで進出した後、当初の予定通りに大名が常駐するための倭城づくりを開始しました。文禄の役にあった城に加え、新しく8つの城を建設することになりました。これに対し明・朝鮮軍は城を早々に潰そうと攻撃を仕掛けます。
慶長の役③第一次蔚山城の戦い
そして起きたのが、慶長の役のハイライト的な戦い「蔚山城(うるさんじょう)の戦い」です。二度に渡る戦いの舞台は蔚山倭城(大韓民国蔚山広域市)で、倭城としては最東端に位置していました。縄張りは加藤清正が、築城は毛利秀元や浅野幸長が担当しています。一度目の戦いは慶長2年12月22日、築城中に起こりました。明・朝鮮軍約5万7000人が、清正を討ち取るために攻めてきたのです。清正は文禄の役で大活躍しており、明や朝鮮は「清正は日本最強の武将。討ち取れば日本軍の士気は大いに下がる」と考えたのです。
蔚山城が攻められた時、加藤清正は西生浦倭城を訪れており不在でした。不意をつかれた日本軍は苦戦。未完成の城に篭城せざるを得ず、十分な兵糧もない状態で必死に防衛します。清正も慌てて城に戻り、数度は明・朝鮮軍を退けたものの、翌慶長3年(1598年)1月にはそろそろ限界に。籠城から10日後、「もう城は落ちるのでは…」という危機的状況にやってきたのが毛利秀元と黒田長政、蜂須賀家政らが率いる1万3000の援軍でした。援軍の大活躍により明・朝鮮軍は約2万の損害を出す大敗を期し、指揮官クラスも多くが死亡。漢城までの後退を余儀なくされました。
明・朝鮮軍を退けた日本軍でしたが、第一次蔚山城の戦いを踏まえ、宇喜多秀家や毛利秀元など13将が蔚山・順天・梁の3城を放棄する戦線縮小案を秀吉に上申します。援軍の送りにくさなどが理由でしたが、小西行長や立花宗茂などは反対。秀吉は提案を却下するとともに13名を叱責しました。
さらに、石田三成が派遣した軍目付のうち、福原長堯・熊谷直盛・垣見一直が黒田長政と蜂須賀家政について「最初は戦っていなかった」などと秀吉に報告。特に蜂須賀家政は「追撃しすぎた」と非難されています。秀吉は怒り2名を処罰しました。ちなみに戦で奮闘した加藤清正や浅野幸長、毛利秀元などはあまり評価されず仕舞いだったようです。
この軍目付からの評価を秀吉に伝えたのが石田三成。また、戦線縮小案を却下した小西行長は石田三成と同じ文治派(豊臣政権で主に政務を担当)でした。文禄の役から清正と三成の関係は悪化していましたが、この蔚山城の戦いをきっかけに石田三成ら文治派と清正ら武断派(主に軍務を担当)の対立は激化していき、関ヶ原の戦いにつながっていくのです。
慶長の役④秀吉の死後に起きた明・朝鮮軍VS蔚山・泗川・順天倭城
朝鮮で日本軍と明・朝鮮軍の戦いが続く中、慶長3年(1598年)5月から豊臣秀吉は病に伏せるようになります。そして8月18日に死亡。その後、豊臣政権の中心である五大老や五奉行は朝鮮からの撤兵を決定し、秘かに準備を進めます。ただし、秀吉の死は秘匿され、朝鮮出兵中の諸将には知らされませんでした。
そして9月、「第二次蔚山城の戦い」が起こります。第一次蔚山城の戦いで敗戦した明は本国からさらに増援を得て10万の大軍になりました。それを陸軍3軍と水軍1軍に分け、陸軍が日本軍の拠点を攻撃し、水軍が退路を絶つ「四路並進策」で、蔚山倭城、泗川倭城、順天倭城の3城を同時に攻めはじめたのです。
蔚山城には約3万の明・朝鮮軍が投入されました。大軍ですが、前回と異なり蔚山城は完成済みで籠城の準備もばっちり。加藤清正がしっかりと守りを固めており、明・朝鮮軍は撃退され、慶州へ撤退しました。
9月末から10月頭にかけて起こった泗川倭城での戦いは、日本軍は数的に不利だったことから最初は苦戦したものの、島津義弘率いる島津軍の活躍により日本軍が圧勝。9月中旬から10月上旬に発生した「順天城の戦い」は、明・朝鮮軍の陸軍と李舜臣率いる水軍計5万5000が、順天倭城の小西行長や有馬晴信などが率いる1万3700人の日本軍と激突しています。明・朝鮮軍の水陸両面の一斉攻撃に日本軍は苦戦しますが、城の守りを固めて明・朝鮮軍を撃退。こうして明・朝鮮軍の「四路並進策」は失敗に終わりました。
慶長の役⑤撤退、そして関ヶ原へ
戦いが落ち着いた10月15日、日本からの使者が五大老からの帰国命令をもって到着し、各武将は日本に帰国することになります。これを受けた小西行長は明側と無血撤退の約束を取り付けますが、明・朝鮮水軍がこれを妨害。行長を助けようと島津義弘を中心とした日本海軍が激突したのが11月18日の「露梁海戦」で、慶長の役最後の戦いです。島津軍は大きな被害を出しながらも行長を撤退させることに成功。一方明・朝鮮側は日本軍に多くの損害を与えたものの、李舜臣などをはじめとした多くの将官が戦死しました。
このように一部で戦はありましたが、日本軍はおおむね順調に釜山に集結し、11月中旬には日本に撤退。こうして慶長の役は豊臣秀吉の死により集結したのでした。なお、朝鮮との講和については、徳川家康の時代を待つことになります。
2度にわたる朝鮮出兵は豊臣政権に大きな影を落としました。遠征費用は自身で賄う必要があったことから、主に朝鮮に渡った西国の武将達のダメージは大きく、政権内での力も徐々に低下していきました。一方朝鮮に兵を出さなかった徳川家康など東国の武将達の力はまし、特に家康は五大老の筆頭にのし上がりました。これに慶長の役で悪化した文治派と武断派の争いが絡みあい、天下分け目の戦いである関ヶ原へと続いていくことになるのです。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。