豊臣秀頼時代の狭間に翻弄された二代目

豊臣秀頼

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人物記
名前
豊臣秀頼(1593年〜1615年)
出生地
大阪府
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戦国時代から江戸時代へと移りゆく中、「もし、生まれたタイミングや出生地が違っていれば…」と思わずにいられない武将たちも数多くいました。豊臣秀頼もその1人。父、豊臣秀吉の晩年近くに生まれてわずか6歳で家督を継ぐことになった息子・豊臣秀頼の運命は、「運がなかった」という言葉が当てはまるかもしれません。精一杯生き、大坂城落城と共に散った豊臣秀吉について紹介します。

誕生と父豊臣秀吉の死

豊臣秀頼は文禄2年(1593)、父・豊臣秀吉と側室であった淀君(浅井長政とお市の方の長女)の子として、大坂城で誕生しました。当時、子供の健康な成長を願う風習として、いったん捨てた形にして、家臣の松浦重政が拾い上げたとされています。幼名は拾丸(ひろいまる)と言いました。秀吉が57歳の時に生まれた子で、先に生まれていた国松が夭逝していたため、待望の後継ぎとして大切にされました。

一説では、豊臣秀吉には多くの正室・側室がいながら子がほとんど生まれていないため、秀吉の子ではないのではないかという噂もあったようですが、真偽のほどはわかりません。

秀頼が誕生した時には、既に従兄の豊臣秀次が秀吉の養嗣子として関白を譲られ、秀吉の後継者となっていました。これは、なかなか世継ぎが生まれなかったための措置です。父の秀吉は当初、秀次と秀頼の関係をうまく調節するために秀頼が誕生した2ヶ月後の10月には、秀頼と秀次の娘を婚約させ、秀吉から秀次、秀頼へという政権継承を模索していました。

しかし文禄4年(1595)7月、秀吉は秀次の関白職をはく奪し、ついで高野山で自刃させてしまいます。同時に、秀次の子女や妻妾もほぼ皆殺しにし、秀頼の跡取りとしての地位を場弱にしました。
秀吉はこの時、秀頼に忠誠を誓約する起請文を作成して、多数の大名達に血判署名させています。伏見(桃山)城が建設され秀吉が居城を移すと、秀頼も一緒に移り住みました。

文禄5年(1596)5月、秀頼は初めて上洛、豊臣朝臣藤吉郎秀頼と名乗ります。秀吉は、御掟・御掟追加などの基本法や五大老・五奉行などの職制を導入して、秀頼を補佐する体制を作り上げます。

しかし、慶長3年(1598)8月に父の秀吉が死去。秀頼はたった6歳で家督を継ぎ、秀吉の遺命で大坂城に移りました。
秀吉死後は、五大老の筆頭であった徳川家康が合議制の原則を無視し、次第に影響力を強めて政権内の対立が深まっていきます。家康に対抗できる唯一の立場にあった同じ五大老の前田利家も秀頼の貢献を任されていましたが、秀吉を追うように死去してしまったことで、政局の主導権は家康の手に握られていくようになりました。

関ヶ原の戦い

慶長5年(1600)、五奉行だった石田三成らが徳川家康に対して挙兵し、関ヶ原の戦いが勃発します。西軍の総大将として擁立されたのは、五大老のひとりであった毛利輝元でした。秀頼は輝元の庇護下に置かれました。関ヶ原では西軍、東軍の双方が「秀頼公のため」の戦いを大義に掲げており、実際に関ヶ原の戦い後秀頼は家康を忠義者として労っています。しかし現実は、豊臣政権内の権力争いでした。

家康は五大老筆頭の立場を巧みに利用し。関ケ原の戦いの戦後処理で豊臣家の所領(いわゆる太閤蔵入地)を勝手に分配し、日本全国に分散して配置されていた約220万石のうち、諸大名に管理を任せていた分を奪う暴挙に出ます。
結果、秀頼は摂津・河内・和泉の直轄地のみを知行する約65万石の一大名の立場に転落してしまいました。

さらに慶長8年(1603)2月、家康は最高権力者の地位を象徴する征夷大将軍の官職を獲得します。諸大名を動員して江戸城の普請を行わせて、江戸幕府を樹立しました。
秀頼は徐々に天下人の跡取りの座から外されていきます。しかし、この時点では、まだ豊臣家は財力などを含め一定の影響力を保っていました。
同年7月、秀頼は、生前の秀吉の計らいで婚約していた江戸幕府二代将軍となる徳川秀忠の娘である千姫(母は淀殿の妹であるお江)と結婚。いとこ同士の政略結婚でした。

秀頼の成長と徳川家康の対応の変化

豊臣家は、摂関家の家格とみなされており、豊臣秀頼は順調に位階や官職の昇進を重ねていきました。実際、年頭には京の公家たちが大坂城に大挙下向して秀頼に参賀、また家臣に対して独自の官位叙任権を行使するなど、朝廷からは秀吉生前と同様の扱いを受けています。
武家の世界でも、秀頼は徳川将軍家直参と同等に書類に記載されており、秀頼はなお徳川家と一定の対等性を持っていました。

慶長10年(1605)4月、秀頼が右大臣に昇進すると、徳川家康は秀頼の上洛と京都での会見を希望します。秀頼には会見する意思があったとも言われていますが、結局は母の淀君の反対で実現しませんでした。これに対して、家康は六男の松平忠輝を大坂城に派遣。松平忠輝が秀頼と面会しています。

慶長16年(1611)3月、家康の干渉により後陽成天皇が譲位し、後水尾天皇が即位します。秀頼は「千姫の祖父に挨拶する」という名目で、加藤清正や浅野幸長に守られて上洛し、京都二条城で家康と会見しました。

方広寺鐘銘事件と徳川幕府の対応

慶長19年(1614)、豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿はほぼ完成します。

4月には梵鐘が完成し、総奉行の片桐且元が、梵鐘の銘文を南禅寺の文英清韓に依頼します。且元は事前に、駿府に隠居していた徳川家康に大仏開眼供養の導師や日時の報告など、徳川幕府を刺激しないよう逐一報告していましたが、開眼供養と大仏殿供養の日取り・供養時の天台宗・真言宗の上下を巡って意見が食い違い、対立してしまいます。
同年7月26日、家康は且元宛に「開眼・大仏殿供養日が同日であることと、大仏殿棟札・梵鐘銘文が旧例にそぐわない。また、内容に問題があるため開眼供養と大仏殿上棟・供養の延期するように」と命じました。

さらに、8月には家康は五山の僧や林羅山に鐘銘文を解読させます。ここで、林羅山は「鐘の銘文に家康呪詛の意図がある」と判断しますが、一方で五山の僧たちは「諱を犯したことは手落ちと言えるが、家康呪詛の意図まではない」と回答しています。
豊臣方は、「あくまで家康に対する祝意として意図的に諱を「かくし題」として織り込んだ」と弁解しますが、幕府は納得しませんでした。
豊臣秀頼の存在が徳川幕府にとって邪魔だったこともあり、この事件を機に家康は大坂城を攻めることを決め、豊臣方も戦の準備に入ることになります。

大坂冬の陣と夏の陣 秀頼の死

豊臣秀頼は、福島正則や加藤嘉明など秀吉恩顧の大名に援軍要請をしますが、大名で豊臣方に味方する者は現れませんでした。その一方で、大坂城には真田信繁(幸村)、後藤基次、長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登といった関ヶ原の戦いで改易された元大名・主家が西軍に味方して改易された結果浪人となった者が続々と大阪城に集まります。

浪人衆は徳川家への恨みや一旗揚げたいと願うものなど、理由は様々でしたが士気は旺盛だったものの、寄せ集めでまとまりに欠けていました。さらにこれら浪人衆と大野治長・秀頼の母君である淀君らが対立し、最後まで統制が取れなかったことも敗因とされています。当初、真田信繁(幸村)たちが京都進撃を唱えても、大野治長などが頑なに反対、大坂城籠城に決まりました。

大坂城での戦闘では浪人衆の活躍・大坂城の防御力で、幕府軍は苦戦、城内に攻め入ろうにも大きな堀に阻まれてしまいます。真田丸の戦いで幕府方が損害を受けたとされています。幕府軍は城内に心理的圧力をかけるため、昼夜を問わず砲撃し、本丸まで飛来した一発の砲弾が淀君の居室に着弾、侍女を粉砕して震え上がらせたと言われています。
豊臣方・幕府軍双方とも食糧・弾薬が尽き始めたことで、家康は和議を提案し豊臣方には反対もあったものの、和議が結ばれました。

その後、和議は大坂城の堀の破却を条件に含んでいましたが豊臣方が履行しなかったため、徳川幕府が堀をすべて埋めただけでなく、城郭の一部も破壊。大坂城は本丸だけとなり、堅牢を誇った防御力が一気に低下してしまいました。
慶長20年(1615)、豊臣方は浪人の総追放や大坂城退去を拒否、堀を掘り返し始めたため、家康は和議が破られたと戦の再開を宣言、大坂夏の陣が勃発します。

白の防御力低下と、軍事力で劣った豊臣方は、家康・秀忠父子が大坂に布陣したところで決戦に挑みます。(天王寺・岡山の戦い)ここで、真田信繁(幸村)は豊臣軍の士気を高めるために秀頼が前線に出馬することを望みますが実現せず。この天王寺・岡山の戦いで豊臣方は有力な武将だった真田信繁(幸村)らを失い、ついに大坂城に徳川方がなだれ込みます。秀頼は淀君や大野治長らと共に自害して果てました。享年23。

大坂城落城後も囁かれた秀頼生存説

大坂夏の陣で大坂城が落城した際、秀頼達が絶命する瞬間を目撃した者がおらず、死体も発見されなかったことから当時は生存説が根強くささやかれていました。

例えば、平戸にいたリチャード・コックスが残した東インド会社への手紙では「薩摩・琉球に逃げた」とあり、ジャン・クラッセの『日本西教史』には「一説には母と妻とを伴なひ辺遇の一大諸侯に寄寓し、兵を募り再挙を謀ると云ひて一定せず」と言う記述があります。

当時の京に流行した「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」という童謡が真田信之のいた松代でも聞こえたと『幸村君伝記』にも記載されていて、庶民の間では生存しているとの噂が絶えなかったとされています。

また、『採要録』には「薩摩国谷山に元和初めに浪士が住み着いて、国主からの家に住んでいた。酒好きでいつも酔って、あちこち寝転がることから「谷山の酔喰(えいぐら)」と呼ばれていた。国主から手出し禁止を命じられ、住民は密かに秀頼公ではないかと噂していた」と伝わっています。実際、鹿児島市下福元町には伝秀頼墓と伝わる塔もありますが、これらはあくまでも伝説で事実とは異なります。

しかし、当時の大坂の庶民たちは豊臣秀吉・秀頼親子に同情的であったと言われており、こうした伝説も非業の死を遂げた秀頼に対する同情から出てきたものと言えるでしょう。

秀頼の墓所と首塚

昭和55年(1980)に行われた大坂城三の丸跡の調査では、発掘現場から豊臣秀頼のものと思われる頭蓋骨が出土しました。その後詳細に調べられ、この骨が人為的に丁寧に埋葬されていること、介錯の跡や周囲からの出土品などから考察して秀頼のものと断定されました。

秀頼が没してから368年ぶりの昭和58年(1983)、秀頼が再興に尽力した所以がある清凉寺に首塚が造られ、首が納められました。首塚の脇には大坂の陣諸霊供養塔も並べて造られています。
ちなみに、秀頼の墓は京都の三十三間堂の東向かいにある浅井長政の院号から名を取った養源院にあります。

秀頼と大坂城

現在は大阪城と字が違いますが、当時は大坂城とされていました。
現在残っている大阪城は、豊臣時代の遺構は大坂の陣で焼けてほぼ地中に埋まっており、豊臣方が滅亡した後、徳川秀忠が元和6年(1620)から寛永6年(1629)にかけて実質的な新築に相当する修築を施した大坂城(徳川大坂城)の遺構です。

明治時代になると、政府は城内の敷地を陸軍用地に転用します。東側の国鉄城東線(現在の大阪環状線)までの広大な敷地には、主に火砲・車両などの重兵器を生産する大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)が設けられたため、太平洋戦争時は米軍の爆撃目標にもなりました。
現在の天守閣は、昭和3年(1928)、当時の大阪市長だった關一が天守再建を含む大阪城公園整備事業を提案し昭和天皇の即位記念事業として整備が進められたもので、戦時中も焼失を免れて現在に至ります。

今では、周囲には大阪城公園が整備されて市民の憩いの場となっています。梅や桜をはじめ、季節折々の花が植えられており、世界中からも観光客がやってくるなど、大阪のシンボルとして愛されています。他にもコンサートなどのイベントが行われる大阪城ホールは老若難所が訪れ、公園内を走るランナーたちも多く、年中賑やかな様子はまさに太閤さんが愛した楽しい雰囲気そのものかもしれません。

また、大阪城公園内にある豊國神社は、父の豊臣秀吉や叔父の秀長と共に秀頼も祭神として祀られています。戦国武将好きをはじめ、勝ち運を願う人たちが訪れており、隠れたパワースポットです。

豊臣秀頼の年表

西暦 和暦 年齢 出来事
1593年 文禄2年 0歳 豊臣秀吉の子として伏見城に生まれる
1598年 慶長3年 5歳 父・豊臣秀吉が死去。豊臣家の後継者となる
1600年 慶長5年 7歳 関ヶ原の戦い。西軍敗北により豊臣家の権威が低下
1603年 慶長8年 10歳 徳川家康が征夷大将軍に就任。江戸幕府成立
1614年 慶長19年 21歳 大坂冬の陣。徳川方と講和
1615年5月 慶長20年 22歳 大坂夏の陣。豊臣方敗北
1615年5月8日 慶長20年 22歳 大坂城にて自刃。豊臣家滅亡
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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。