鎖国令江戸幕府による「鎖国」
鎖国令
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江戸時代、日本は海外との貿易や外交を制限する、いわゆる「鎖国」政策を実施していました。とはいえ、鎖国の本来の意味である「国を閉ざして孤立する」のではなく、オランダ、中国(明・清)、朝鮮、琉球王国とは場所を限定して貿易や外交を続けていました。今回はそんな「鎖国」について、数度にわたって出された「鎖国令」を中心に、内容やその経緯、海外との交流についてわかりやすく解説していきます。
江戸時代に「鎖国」はなかった?「鎖国」にまつわる議論
鎖国令の話に入る前に、近年主流となっている「江戸時代に鎖国はなかった」論について触れておきましょう。筆者のように30代~40代以上の方は小学校で「江戸時代は鎖国により国は閉ざされ、貿易が許されていたのは長崎のみ」と習った方が多いと思いますが、実際は「鎖国」中もオランダや中国、朝鮮、琉球王国に対し「四つの口」と呼ばれる窓口を開いており、完全に国を閉ざしていたわけではありません。
つまり「鎖国」とは、江戸幕府が海外との外交・交易を管理・制限していた政策のことであり、言葉の意味通りの「国を鎖す(とざす)」、つまり国を封鎖して外国との交流を禁止していたわけではありません。このため研究者の中では「鎖国」ではなく東アジアの伝統的な対外政策である「海禁」というワードを使って江戸時代の外交政策を説明するケースも出てきています。
そもそも江戸時代に「鎖国」という言葉は使われていませんでした。「鎖国」の元になったのは、元禄3年(1690年)から3年間、日本に滞在したオランダ東インド会社の医師で博物学者のエンゲルベルト・ケンペルによる『廻国奇観』をもとに出版された『日本誌』の一説です。
『日本誌』はケンペルの死後に出版されたのちベストセラーになり、英語からフランス語、オランダ語に翻訳されました。そのオランダ語版の一部を長崎通詞の志筑忠雄が翻訳。それが『最良の見識によって自国民の出国および外国人の入国、交易を禁じ、国を閉ざしている日本』とタイトルがつけられた論文で、江戸幕府の政策を肯定する内容でした。志筑忠雄はタイトルがあまりに長いことから短くして『鎖国論』と名付けて出版します。ここで「鎖国」という言葉が出現するのです。
『鎖国論』により「鎖国」は江戸末期から使われるようになりました。ところがこれをマイナスイメージに転嫁させたのが明治時代の役人や文化人たち。明治政府の「開国」「西洋化」を肯定的にとらえるために、江戸時代の外交政策である「鎖国」を批判したのです。そのため「鎖国」という言葉はマイナスのイメージをもたれるようになりました。
なお、社会科の教科書を出版する帝国書院では、「鎖国」について「外交・貿易統制当初から使われた言葉ではない」「『国を鎖す』という受動的・否定的なイメージと、江戸時代の外交・貿易の実態とは違う」という理由から、教科書内で「鎖国」という「」付きの表記にしているとのこと。ちなみに単語を使い続けている理由としては「教科書で長く使われた用語であり、江戸幕府の貿易の実態とともに使用すれば、江戸幕府の対外政策の独自性を象徴的に示せる言葉」であると説明しています。
「鎖国」の目的は?
江戸幕府が海外との外交・交易を管理・制限した「鎖国」ですが、なぜ幕府はこのような政策を実施したのでしょうか?その理由として挙げられるのが、キリスト教対策です。
江戸幕府が開かれた当初、幕府は中国(明)、朝鮮、東南アジア、ヨーロッパの国々と貿易を実施していました。ヨーロッパについてはポルトガル、スペインといったカトリック国とオランダやイギリスといったプロテスタント国と貿易しています。
ところが貿易とキリスト教の布教をパッケージ化していたカトリック国の宣教師たちによる布教でキリスト教が広がるにつれ、幕府はキリスト教を不安視し始めます。キリスト教の「神のもとの平等」という思想は幕府の支配体制を揺るがしかねないものでしたし、一向一揆のように一揆が発生する恐れもあります。キリスト教国の宣教師に土地を寄進するキリシタン大名により、カトリック教国による日本植民地化の危険性もありました。
また、後述しますが寛永14年(1637年)10月から翌年2月まで起こった「島原の乱」の結果、幕府が「鎖国」体制を強化したことからも、「鎖国」がキリスト教の禁止と深く結びついていることがわかります。
もう一つの理由は、幕府による貿易の独占です。海外との貿易は莫大な富を生むものであり、キリシタン大名たちが力をつけたのも貿易が理由でした。貿易を幕府の統制下に置くことで、貿易による利益と海外からの情報を独占し、幕藩体制の安定化をはかったのです。
「鎖国」への道のり①キリスト教禁教令と「二港制限令」
それでは、幕府が「鎖国」に至るまでの流れを見ていきましょう。なお、先に述べた通り「鎖国」という単語は江戸末期以降のものなので、当時「鎖国令」という名前の禁令が出ていたわけではありません。江戸幕府による外国との通商や貿易などを禁止・限定する一連の禁令が、現在「鎖国令」と呼ばれています。
「鎖国」の始まりは第2代将軍・徳川秀忠の時代から。秀忠は慶長17年(1612年)に幕府の直轄地を対象に禁教令を出し、翌年全国に拡大しました。慶長18年(1613年)12月には伴天連追放文を発布しており、翌慶長19年(1614年)には高山右近をはじめとしたキリシタンたちがマカオやマニラに国外追放されています。
この一連のキリスト教の禁令は、慶長14年(1609年)から慶長17年(1612年)に起きた「岡本大八事件」が原因です。岡本大八事件はキリシタンの岡本大八がキリシタン大名・有馬晴信から多額の金銭をだまし取った詐欺事件で、この事件をきっかけに江戸幕府はキリスト教を禁止する姿勢を明確化し、キリスト教を広めるカトリック国を排除しようとさまざまな施策をおこなっていくのです。ちなみにこの段階で幕府はキリスト教布教と貿易を分けていたプロテスタント国との貿易を拡大しつつありました。
その後、江戸幕府は大坂冬の陣・夏の陣を経て豊臣宗家を滅亡させます(慶長20年/1915年)。そして同年に一国一城令や武家諸法度、禁中並公家諸法度などを発出して国内の統制をはかりました。
続いて貿易・外交統制策として、元和2年(1616年)に「二港制限令」を発出します。こちらはヨーロッパからの来航を「長崎港」(現長崎県長崎市)と平戸港(長崎県平戸市)に制限するとともに、キリスト教を禁止するという内容のもので、「プレ鎖国令」といえるものでした。
「鎖国」への道のり②奉書船制度と寛永10年の「第一次鎖国令」
第3代将軍・徳川家光の時代に入ると、幕府は寛永8年(1631年)に「奉書船制度」を開始します。これは当時東南アジアで実施していた朱印船貿易において、将軍が出した朱印状に加え、幕府の老中による許可状(奉書)を持った船のみ海外渡航が許可されるというもの。朱印状は将軍が発行したものでとくに期限がなく、さらに神君・家康公が発行したものもあり、取り消せませんでした。このため新たに「奉書」を作ることで事実上朱印状の無効化をはかったわけです。
そして寛永10年(1633年)には二月令、つまり「第一次鎖国令」が出されます。こちらは奉書船以外の海外渡航を禁止し、密航者は死罪にするというもの。海外在住者の帰国も死罪ですが、例外的に滞在が5年以内で、帰国後日本に滞在する場合は無罪としています。また、バテレン(キリスト教宣教師)を密告したものには褒美を与える、といったキリスト教禁教に関する記述も含まれています。
続いて寛永11年(1634年)に出されたのが「第二次鎖国令」。これは第一次鎖国令の再通達と、長崎にヨーロッパ人の隔離施設・出島の建設を始めるものでした。
「鎖国」への道のり③第三次鎖国令
事態が大きく動いたのが寛永12年(1635年)に出された五月令、つまり「第三次鎖国令」でのことでした。第三次鎖国令では日本人の海外渡航の全面禁止と、日本人の帰国の禁止を定めており、ともに違反すると死罪になります。また、こちらでも「バテレンを密告したものは褒美を与える」としています。
寛永13年(1636年)は「第四次鎖国令」としてカトリック教国である対ポルトガル対策を実施。幕府は貿易に無関係のポルトガル人とその妻子287人をマカオに追放し、残されたポルトガル人を同年完成した出島に移しています。
幕府が徐々に海外との貿易を制限し、キリスト教への弾圧を強めるなか、寛永14年(1637年)10月、島原の乱が発生。幕府は寛永15年(1638年)2月まで続いたキリシタンたちの大規模反乱に追われ、乱の鎮圧後はキリスト教への危機感をさらに強めました。
「鎖国」への道のり④第五次鎖国令で「鎖国」完成
そして出されたのが寛永16年(1639年)の七月令こと「第五次鎖国令」。ポルトガル船の入港を完全に禁止し、もしこれに違反した場合は船を破壊し、乗組員は斬罪に処すとしています。
また、「キリスト教徒が徒党を組んでよからぬことを企てた場合は直ちに処罰する」としており、島原の乱の影響が見受けられます。この第五次鎖国令により鎖国は完成したと言われています。
ちなみに、ポルトガルと並んでもう1つのカトリック教国であるスペインに対しては寛永元年(1624年)に国交を断絶し、スペイン船の来航を禁止しています。ポルトガルとの付き合いが寛永16年まで続いた理由としては、プロテスタント国のオランダが日本の求める交易品を提供できるようになるまで待っていたためと言われています。
オランダはスペインとオランダ独立戦争で争い、天正9年(1581年)にネーデルラント連邦共和国を成立させましたが戦争はそのまま続き、スペインとの休戦条約が結ばれたのは慶長14年(1609年)のこと。同年オランダは平戸に商館を開いています。
なお、江戸時代初期の貿易国としてあげられたイギリスはどうなったかといえば、オランダとの競争に敗れ、元和9年(1623年)に平戸の商館を閉鎖して撤退しています。
「鎖国」下の窓口「四つの口」はどこにあった?
第五次鎖国令により、いわゆる「鎖国」は完成しましたが、まだ海外との窓口はありました。それが「四つの口」と呼ばれる長崎口・薩摩口・対馬口・松前口(蝦夷口)です。
長崎口では幕府直轄の長崎奉行のもと、オランダや中国(明・清)との貿易が行われました。この2国は江戸時代には正式な国交はなく、通商関係のみだったことから「通商国」と呼ばれています。オランダ人は出島に、中国については当初は長崎の町に滞在していましたが、元禄2年(1689年)からは密貿易の防止・中国経由のキリスト教の伝播防止のために唐人屋敷に滞在するよう義務付けられていました。
薩摩口では薩摩藩(鹿児島県と宮崎県南西部)の島津氏が琉球王国と、対馬口では対馬藩(長崎県対馬市と佐賀県の一部)の宗氏が朝鮮と、それぞれ外交・貿易を実施。正式な国交があったことから2国は「通信国」と呼ばれています。
琉球王国は慶長14年(1609年)に島津氏の侵略を受けて以降(琉球侵攻)、半独立国という体をとりながらも実質は島津氏の支配下に置かれました。琉球王国からは寛永11年(1634年)を皮切りに嘉永3年(1850年)まで計18回、使節団が江戸を訪問しています。
一方の朝鮮からは慶長12年(1607年)から文化8年(1811年)まで計12回通信使(最初の3回は別の名称)がやってきています。朝鮮とは豊臣秀吉の朝鮮出兵の影響で関係が悪化していましたが、もともと朝鮮とかかわりが深かった宗氏が交渉の末国交を回復していました。
最後の松前口は松前藩(当初は北海道南部、その後拡大)の松前氏が蝦夷(北海道全島、樺太島、千島列島など)のアイヌ、ひいてはアイヌ経由でのロシア・黒竜江(アムール川)下流域の住民との交易を実施していました。
「鎖国」の終わりと「開国」
このように幕府は「鎖国」のもとで外国と交流を続けてきました。しかし江戸時代後期、ロシアやフランス、イギリス、アメリカの船が次々と日本を訪れて外交や通商をもとめて交渉します。そして嘉永6年(1853年)7月には浦賀にマシュー・ペリー率いる黒船が来航。嘉永7年(1854年)3月、日米間で日米和親条約が締結され、日本は「鎖国」を終えて「開国」することになるのです。
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- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。