米沢城山形県米沢市

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米沢城DATA
別称 舞鶴城、松ヶ岬城
築城 1238年
住所 山形県米沢市丸の内1-4

米沢城は米沢藩上杉氏の藩庁および、二の丸に米沢新田藩の藩庁が置かれる。

米沢城への交通アクセス
JR山形新幹線/奥羽本線・米沢駅から米沢市民バス「米沢(松原)関根線」バスに乗り、「上杉神社前」バス停下車。

HISTORY 伊達政宗の誕生地、米沢城

米沢城は山形県米沢市にある平城です。戦国武将の中で抜群の知名度と人気を誇る伊達政宗が生まれた城としても知られています。また、江戸時代は上杉氏の居城となり、明治まで米沢藩の藩庁が置かれました。では、これから米沢城の歴史を紐解いていきましょう。

伊達氏の本拠地として発展する
米沢城は、鎌倉時代の中期に鎌倉幕府の重臣である大江広元の次男・長井時広が出羽国置賜郡長井郷の地頭として赴任したときに作られた館が最初だったという説があります。
しかし、現在のところ長井時広が館を作ったという資料も史跡も発見されてはいません。
それでも、長井氏が鎌倉時代から室町時代中期にかけて米沢の地を支配していたのは事実です。
長井氏の米沢支配は約150年続きましたが、室町時代中期に伊達宗遠が侵略して米沢の地を伊達家のものとしました。伊達氏は天文17年(1548年)に14代目当主の伊達稙宗とその子ども晴宗が争った天文の乱の後、本拠地を現在の福島県内にあった桑折西山城から、米沢城に移します。これ以後、米沢城は米沢の中心地となり。米沢城下町が現在の形にまで発展することになります。
豊臣秀吉による米沢支配
戦国時代の末期、天正17年(1589年)に伊達政宗は蘆名義広を破って会津蘆名氏を滅ぼします。政宗は伊達氏の本拠地を蘆名氏の居城でであった黒川城(若松城)に移しました。しかし、この会津支配は豊臣秀吉に認められず、伊達政宗は一度米沢城に戻った後、今度は岩出山城に移ります。米沢城は会津に封じられた豊臣秀吉の重臣、蒲生氏郷の臣下蒲生郷安が入城しました。蒲生郷安は城主である間に米沢城を一部改築しています。
その。慶長2年(1597年)に蒲生氏は下野国宇都宮に移封され、その後越後から上杉景勝が会津に移封となって米沢城は直江兼続が任じられました。
江戸時代の大改修
豊臣秀吉の死後、上杉景勝やその臣下直江兼続は徳川家康と敵対します。慶長5年(1600年)に関ヶ原の合戦が起こると上杉景勝は西軍につきますが、敗れてしまいました。その結果、上杉氏は120万石から51万石へ石高を減らされます。その結果、上杉家に残されたのは置賜地方・陸奥国伊達郡・信夫郡のみとなり、居城が米沢城となります。
上杉景勝は慶長13年(1608年)に直江兼続に命じて城の大改修を行い、米沢城は慶長18年(1613年)輪郭式の縄張りを持つ城に生まれ変わります。なお、この城には上杉家が抱えていた家臣団は入りきらず、下級藩士たちが城下近郊の東原・南原に配されます。米沢藩にほかの藩の城下町に見られない下級藩士たちで形成された侍町が生まれたのはこのときからです。以後、米沢城は幕末まで上杉家の居城で在り続けました、
明治以降の米沢城
幕末、米沢藩は会津藩らと共に奥羽越列藩同盟に加わり、明治新政府に抗います。しかし、結果は敗戦に終わりました。廃藩置県後、明治6年(1873年)に米沢城の建物は上杉謙信と米沢藩中興の祖、上杉鷹山を合祀した上杉神社を残してすべて取り壊されてしまいます。
その後、藩の政庁であった建物はそのまま町役場(後の市役所)などに転用され城跡は明治7年(1874年)に公園として市民に解放されました。明治29年(1896年)二の丸跡に上杉家14代当主上杉茂憲の邸宅が建てられています。
しかし、大正8年(1919年)米沢市内で大火が発生し、上杉邸も上杉神社も焼失してしまいます。その後、大正12年(1923年)に上杉神社の社殿が、大正14年(1925年)上杉邸が再建され、以後邸宅は「鶴鳴館」と呼ばれます。鶴鳴館は昭和25年(1950年)市に寄付されて公民館として使用された後、昭和54年(1979年)に上杉家記念館となります。なお、上杉記念館は平成9年(1997年)に登録有形文化財となり、平成29年(2017年)に続日本100名城に指定されました。
現在の米沢城跡
現在の米沢城跡は、松が岬公園として市民の憩いの場になっています。伊達政宗・上杉謙信・上杉景勝・直江兼続は戦国武将の中でも知名度、人気共に高いため、彼らの足跡を求めて城址公園や上杉神社に足を運ぶ人も絶えることはありません。また、鶴鳴館は「上杉伯爵邸」となり、会食・喫茶・着付けなどが行える米沢文化を伝える場所となっています。

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米沢藩
米沢藩DATA
藩庁 米沢城
旧地域 出羽国置賜郡
石高 14万7000石
譜代・外様 外様
主な藩主 上杉家
推定人口 12万3356人(嘉永6年)

上杉鷹山は破綻の危機にあった藩財政を立て直すために、率先して倹約を徹底。また、米沢織の品質を高めながら、販路を拡大することにより、産業力の増強に意を尽くした。

日本の城フォトコンテスト.04