HISTORY
伊達政宗が築いた天守閣を持たなかった城、仙台城
仙台城は、宮城県仙台市にあった平城です。江戸時代になって築城されたので、石垣がほとんどなく土塁と堀を巡らせた城で、天守閣も最初から作られませんでした。また、幾度も火災に見舞われた城としても知られています。そんな仙台城の歴史を紐解いていきましょう。
- 関ヶ原の戦いの後に建てられた城
- 仙台城は慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの後で築城が開始されました。築城者は最も有名な戦国武将のひとり、伊達政宗です。伊達政宗は現在の宮城県大崎市に築かれていた岩出山城を居城としていましたが、徳川家康の許しを得て築城に着手します。
これは、岩出山城が豊臣秀吉により一方的にさだめられた居城であったことや徳川家康が伊達政宗に『100万石のお墨付き』を与えたので、より政治がしやすい場所に居城を求めたことが理由と考えられています。
なお、100万石のお墨付きは後年、「伊達政宗が一気を扇動した」という疑いがかかったことで反故にされてしまいました。
伊達政宗は慶長7年(1602年)に本丸と西の丸を築き、慶長8年(1603年)に仙台城に入城します。このとき、天守台は築かれましたが天守は築かれませんでした。すでに徳川家康が天下を取った時代、天守を作らない城は時代遅れです。しかし、広瀬川を防衛線とした城は堅牢で籠城にも適しており、徳川家康を警戒させたと伝えられています。そして、寛永15年(1638年)二代目伊達忠宗が西の丸を増築し、仙台城は完成しました。
なお、伊達政宗が作った本丸には御殿もあって政務も執れるようになっていましたが、山の上にあって行き来に不便ということで二の丸が政務の中心になりました。なお、時期は不明ですがその後仙台城本丸が築かれている青葉山の麓に三の丸が築かれ、仙台藩の政務は完全に二の丸、三の丸で行なわれるようになります。
- 江戸時代の仙台城
- 江戸時代、仙台城は仙台藩の藩庁であり、仙台藩を治める伊達家の居城で在り続けました。また、仙台城はたびたび火災や地震に遭っていますがその都度修理をされ、幕末まで存続し続けます。特に、文化元年(1806年)に発生した火災は被害が大きく、二の丸がほぼ全焼し。建て直すまで6年の歳月を要しました。
また、幕末になると仙台藩は奥羽越列藩同盟に加わり、旧幕府軍とともに明治政府軍と戦います。しかし、仙台が戦場になることなく、要塞として最高の機能を持った仙台城は一度も戦争に使われることなく明治を迎えました。
- 明治以降の仙台城
- 明治6年(1873年)、廃城令が政府より出され、全国の城は解体されたり軍の施設として再利用されたりするようになりました。仙台城は「現存」とされましたが、それに先駆けて東北鎮台が仙台城を本営にして駐屯しており、本丸は破壊されて軍の兵舎などに建材が流用されていました。
その後、明治天皇が明治9年(1876年)に行幸するなどしましたが、明治15年に二の丸より火災が発生し、ほとんどの建物が尚逸してしまいます。このとき、焼け残ったのは大手門、脇櫓、虎ノ門などのごく一部でした。
昭和6年(1931年)大手門と脇櫓が国宝に指定されます。しかし、昭和20年(1945年)の仙台空襲により、国宝に指定された大手門や脇櫓はすべて焼失してしまいました。
そして戦後、仙台に進駐したアメリカ軍が二の丸跡地に「キャンプセンダイ」を設立、三の丸巽門が破却され、江戸時代の遺構は全てなくなりました。
なお、キャンプセンダイは昭和32年(1957年)に日本に返却され、二の丸跡地は東北大学の川内キャンパスになり、現在に至ります。
- 現在の仙台城跡地
- 現在の仙台城跡地は「青葉山公園」として観光名所の一つになっています。仙台城跡地は、滝廉太郎作曲の「荒城の月」のモデルになったことから、定期的に作詞者土井晩翠の銅像の前で荒城の月のメロディが流れています。
また、本丸跡地や出土された仙台城の遺物を展示する博物館、さらに伊達政宗像などがあり、伊達政宗ファンの「聖地」としても親しまれています。
なお、仙台城跡は遺構こそありませんが、日本百名城の1つに数えられています。
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