HISTORY
花崗岩の石垣だけが現在も残る「盛岡城」
盛岡城は、岩手県盛岡市にあった平城です。室町時代より北奥羽全域を支配してきた南部氏の居城であり、江戸時代は盛岡藩の藩庁でもありました。盛岡城は明治時代に廃城令が出された後、天守閣をはじめとした建物はほぼ取り壊され、現在は花崗岩でできた石垣だけが残っています。
そんな盛岡城の歴史を紐解いていきましょう。
- 盛岡城の築城
- 盛岡城の築城がはじまったのは、文禄元年(1592年)のことです。陸奥国北部は南北朝時代より南部氏が支配下に置いていましたが、天正18年(1582年)天下統一を果たした豊臣秀吉により、当時の当主である南部信直が所領を安堵されています。
所領を安堵された当時、南部氏は九戸に本拠地を構えていましたが、そこでは領地の支配を行うには北部過ぎるとのアドバイスを受け、不来方の地に新しい城を築くことを決意し、築城に踏み切りました。
なお、盛岡城は別名「不来方城」ともいわれていますが、不来方城は盛岡城の前身であり、別の城郭という説があります。
慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こった際、南部氏は東軍についたため、引き続き所領を安堵されました。
盛岡城は何度か改築を経て慶長年間(1615年)までに、総石垣の城として完成しました。
この時代、東北地方の城は土塁が主だったため、花崗岩の総石垣の城はとても珍しいものでした。
なお、盛岡城が完成した当時の当主であった南部利直は地名を「盛り上がり栄える岡」という意味を込めて、不来方から「盛岡」へと改名しました。
なお、南部利直が三の丸を整地した際に見つかった烏帽子岩(宝大石)は現在も三の丸跡に鎮座し、櫻山神社(旧・淡路丸大明神)の社宝として信仰を集めています。
また、盛岡城築城に併せて中津川以北の湿地帯を埋め立てて城下町を整備しています。
なお、築城の際に旧居城地から移した青銅製の「擬宝珠」は、現在も盛岡三橋の1つ「上之橋」に取り付けられており、現在も国の重要文化財に指定されています。
- 江戸時代の盛岡城
- 盛岡城が正式に完成したのは、寛永10年(1633年)のことです。しかし、翌年失火により本丸を消失、一時期、福岡城(九戸城)が南部氏の居城になりましたが、寛永12年(1635年)には修復が終了し、再び盛岡城が南部氏の居城になり、以後明治維新まで盛岡藩の藩庁として機能しました。
- 明治以降の盛岡城
- 明治4年(1871年)廃城令によって盛岡城は廃城になります。城郭の建物は当初保存される予定でしたが、老朽化が著しいためにほぼ全てが取り壊しとなり、城跡の用地は陸軍に払い下げられた分以外は、旧藩主の南部家の所有となりました。
明治39年(1906年)、南部家より岩手県に城跡の用地が貸し出され「岩手公園」として、市民に公開されます。
昭和9年(1934年)南部家より盛岡市が貸与されていた用地を買取り、昭和12年(1937年)に国の史跡に指定されました。
昭和63年(1989年)に日本の都市公園100選に選定され、平成18年(2006年)には日本能代100選にも選定されます。
なお、このときに愛称が「盛岡城跡公園」となりましたが、今でも「岩手公園」のほうが知名度が高く、両方の名称が使われています。
現在の岩手公園は、盛岡城の石垣のほか、日影門外時鐘、桜林、梅林、多目的広場などさまざまな施設があります。
盛岡市民の憩いの場であると同時にさまざまなイベントが開催されており、盛岡市の観光名所の1つにもなっています。
現存している石垣は、野面積・乱積・布積と複数の積み方を見ることができ、現在も修復作業が進んでいます。
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