HISTORY
奥州関門の名城といわれた白河小峰城
白河小峰城は、福島県白河市にあった平城です。完成の改革で知られる松平定信を始め、7つの家がこの城を居城として白河一帯を治めました。奥州関門の名城と讃えられていましたが、幕末に勃発した戊辰戦争により、ほとんどの建物が焼失してしまいました。そんな白河小峰城の歴史を紐解いていきましょう。
- 江戸時代以前の白河小峰城
- 白河小峰城は、14世紀に結城親朝が小峰ヶ岡に築城した小峰城が前身といわれています。
天正18年(1590年)、当時の城主であった白河結城氏が豊臣秀吉の奥州仕置により改易されると、小峰城は蒲生氏や上杉氏の支配下となりました。
- 白河小峰城の築城から江戸時代
- 寛永4年(1627年)、丹羽長重が10万石で棚倉城より白河に移封じられます。丹羽長秀は織田家家臣丹羽長秀の長男であり、織田信長が本能寺の変で倒されると豊臣秀吉の家臣となり、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与しました。
そのため、一旦改易の憂き目にあいますが、慶長8年(1603年)に1万石で大名に復帰します。その後、慶長19年より勃発した大阪の陣で武功を立てたため、二代将軍徳川秀忠の御伽衆に出世しました。なお、丹羽長重の出世に伴い、各地に散っていた丹羽氏の家臣達が再び彼の元に集まってきたというエピソードは有名です。
丹羽長重は、幕命により寛永6年(1629年)より城郭の大改築に着手し、3年の月日をかけて白河小峰城を築城しました。できあがった白河小峰城は、盛岡城、若松城と共に「東北三名城」と評されるようになりました。
その後、白河小峰城は白河藩藩主の居城となり、7つの家が治め21人の藩主が誕生します。そして、幕末の慶応4年(1868年)、白河小峰城は戊辰戦争で奥羽越列藩同盟軍と新政府軍との激しい攻防の舞台となり、めぼしい建物はすべて焼失してしまいます。この戦いは「白河口の戦い」と呼ばれ、同盟軍が数百名の死傷者を出したのに対し新政府軍は20名前後だけという、圧倒的な新政府軍勝利で幕を下ろしました。
- 明治以降の白河小峰城
- 明治6年(1873年)に、白河小峰城は廃城令によって廃城となります。めぼしい建物が戊辰戦争でほぼ焼失していたため、白河小峰城は早くから曲輪・土塁・石垣・水堀を残すのみとなり、二の丸広場は白河町の公園広場となりました。昭和62年(1987年)に史跡整備が行なわれるまでは、公園広場には野球場もあり、競輪も開催されていたそうです。
平成3年(1991年)には本丸跡に店主に相当する三重櫓、平成6年(1994年)に前御門が復元されました。
平成23年(2011年)に発生した東日本大震災により、白河小峰城も数箇所の石垣・曲輪が崩壊、積み重ねがゆるむなどの被害が出ました。2011年秋から崩れた石を一つずつ図面に起こし、形状を崩落前の石垣の写真と比較してどこの石かを特定し、そのうえで元の通りに積み直すといった地道な修理がはじまり、2015年にやっと再入場が可能になり2019年に鈴木和夫市長が城山公園で石垣修復の完了を宣言しました。
現在、白河小峰城は震災復興のシンボルともなっています。
城址公園の敷地内には小峰城歴史館もあり、パネルや模型、VRシアターで小峰城の歴史を学べたり歴代城主の愛蔵品なども見たりできます。
- まとめ
- 白河小峰城は東北三名城と呼ばれるほど美しい城だったと伝わっています。
現在は復興された石垣のみ当時のものですが、復興された櫓や門も江戸時代の技法で復元されており、当時を忍ぶことができます。