HISTORY
大阪の陣以来江戸時代で唯一戦闘が行なわれた二本松城
二本松城は、福島県二本松市にあった平城です。日本百名城の1つに数えられており、現在は桜の名所としても有名です。しかし、江戸時代末期、二本松の戦いと呼ばれる戦場となった城でもあります。そんな二本松城の歴史を紐解いていきましょう。
- 二本松大改修までの歴史
- 二本松城は、畠山氏によって室町時代初期に築かれたという説が有力です。築城年数は所説あり、応永21年(1414年)もしくは嘉吉年間(1441~1443年)のいずれかといわれています。畠山氏はその後二本松畠山氏、(奥州畠山氏)や二本松氏と呼ばれるようになり、彼の地を治めました。
安土桃山時代になると、奥州の覇者伊達政宗が二本氏の所領に攻め入ります。そのため、二本松氏は伊達政宗の父伊達輝宗に和睦を申し出るように見せかけ、彼を拉致しようとします。伊達政宗は父、輝宗もろとも15代当主である二本松義継を殺しました。
15代当主の二本松義継と伊達輝宗の死により、二本松氏と伊達氏は本格的な戦に突入し、人取橋の戦いなどを経て、天正14年(1586年)に二本松城は開城、二本松氏は伊達政宗に滅ぼされました。
その後、二本松城の城代は片倉景綱や伊達成実を経て、会津若松城主蒲生氏郷の支城となります。さらに、上杉景勝が会津の地を豊臣秀吉から賜ると、家臣の下条忠親が城代となりました。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いが東軍の勝利で終ると、西軍に就いた上杉景勝は米沢藩に国替えとなり、二本松城は再び蒲生氏のものとなります。
- 江戸時代の二本松城
- 江戸時代に入ると、二本松城は最終的に丹羽長秀の孫・光重が10万700石で入り、この丹羽家が幕末まで二本松藩の藩主となりました。寛永20年(1643年)、丹羽光重は城の大改修を行なって、石垣や三重の天守閣を築きます。
時代は下り、慶応4年(1868年)、戊辰戦争が勃発します。
会津藩討伐を主張していた奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵が仙台藩士によって暗殺されたことを発端として東北の諸藩が明治政府に反発。奥羽列藩同盟を結成し、二本松藩もそれに加わりました。そのため、二本松城は明治政府の攻撃の対象となります。二本松藩の兵力は、少年兵、老年兵も含めてわずか2000人にも満たず、それに対して明治政府軍は7000人、かつアメリカやイギリスの協力で西洋式の軍事教育も受けていました。はじめから勝ち目のない戦いでしたが、二本松藩の藩士達は徹底抗戦し、慶応4年の7月29日、二本松城は炎上して落城します。
戊辰戦争では、会津戦争をはじめ多くの激戦が行なわれましたが、城が炎上して落城したのは、二本松城だけです。また、この戦いで後に「二本松少年隊」と呼ばれる13~17歳の少年兵が十人以上戦死したと言います。最終的に二本松の戦いでの戦死者は公式の記録では337人、負傷者71人です。これは、東北の藩の中で群を抜いて多く、戦のすさまじさを物語っています。
- 明治以降の二本松城
- 二本松の戦いで大部分の建物が燃えた二本松城は、明治になると残った建物もすべて取り壊され、明治6年に城跡には二本松製糸会社が建設され、福島県の近代化に貢献しました。
昭和57年(1982年)箕輪門と附櫓が復元され、平成5年(1993年)から平成7年(1995年)にかけて本丸の修復、復元工事が行なわれ、城跡公園としての体裁が整えられています。
現在は、国定史跡県立霞ヶ城公園として、福島県の観光名所となりました。
また、明治政府の時代は表だって供養できなかった戊辰戦争の戦死者たちも、少しずつ遺族が声を上げてきた結果、今では公園内に戦死者の供養塔や二本松少年隊の像なども建てられています。
このほか、公園内には約2,500本もの桜が植えられており、桜、紅葉の名所としても有名です。
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