HISTORY
江戸時代の初期に廃城となった「根城」
根城は、青森県八戸市根城にあった平城です。根城南部氏の本拠地として南北朝時代に築城され、幾度か改築を繰り返しながら江戸時代初期に廃城となりました。現在は、中世の遺構を今に伝える貴重な史跡として、安土桃山時代に造られた建物の一部が復元されています。そんな根城の歴史を紐解いていきましょう。
- 根城城築城
- 根城は建武元年(1334年)南部師行によって築城されました。南部師行は、もともと甲斐国に領地を持っていましたが、新田義貞が鎌倉を攻めた際その軍勢に加わって武勲を建てました。
鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武の新政が始まる南部師行の一族も役職を与えられます。そして、正慶2年(1333年)、後醍醐天皇の皇子である義良親王を奉じ、陸奥守北畠顕家にしたがって陸奥国多賀城に下向しました。そしてこの地で、北畠顕家を頂点にする奥州の小幕府が開かれると、南部師行は糠部郡の郡代に任ぜられます。糠部郡とは、現在の青森県東部から岩手県北部にかけての地域です。この地は軍馬の産地であり、南部氏は牧経営の経験があったためにこの地を与えられたという説があります。
糠部郡の郡代になった南部師行は、南部氏の居城として糠部郡八森に根城を築城しました。
根城を本拠地とした南部師行は、鎌倉幕府滅亡をきっかけに発生した津軽の豪族同士の争いである大光寺合戦などにも勝利し、津軽地方まで勢力を伸ばしていきます。しかし、彼は北畠顕家とともに足利尊氏討伐に参加し、暦応元年(1338年)高師直との戦いで戦死しました。
その後、南部家は南朝への中世を誓って室町幕府からの降伏勧告を退け続けますが、南朝の勢力が弱体化して行くにつれて南部氏の勢いも弱まっていきます。明徳4年1393年、南部氏の本拠地である甲斐国で8代目の領主の座に就いていた南部政光は、改めて根城に拠点を移し、南部氏再興を図りますが周囲で小競り合いが続いてなかなかうまくいきませんでした。
なお、根城を居城とした南部氏はこの時代頃より「八戸氏」と呼ばれるようになります。そして同時期、北奥州で勢力を伸ばしたのは同じ南部氏である三戸南部氏でした。三戸南部氏は、その後豊臣政権を後ろ盾にして閉伊郡、和賀郡、稗貫郡の支配を認められるなど勢力をさらに伸ばしました。
- 安土桃山時代から根城廃城まで
- 天正18年(1590年)小田原征伐の際に三戸南部氏の当主であった南部信直が、豊臣秀吉のもとに帰参し、所領の南部7郡を安堵されると同時に、八戸南部氏を支配下に組み込む許可を得ます。これにより、八戸南部氏は正式に三戸南部氏の家臣となりました。
天正20年(1592年)豊臣秀吉の命によって根城の本丸は取り壊されましたが、館など城主の居城は残ったため、八戸南部氏の本拠地であり続けます。
江戸幕府が開かれると、三戸南部氏は盛岡藩を開き八戸も盛岡藩領に組み込まれます。そして、寛永4年(1627年)に八戸南部氏22代目の八戸直義の時代、初代盛岡藩主南部利直によって遠野国替えされます。これにより、根城は八戸南部氏の本拠地としての機能を終え、廃城になりました。
なお、遠野に移封された八戸南部氏は、当時荒れ地であった遠野地方の開墾に精を出しやがて遠野南部氏と呼ばれるようになります。
- 現代の根城
- 廃城になった根城は長らく忘れられた存在でしたが、昭和16年(1941年)に国の史跡に指定されます。昭和58年(1983年)からは11年にわたって発掘調査や整備調査が行われ、平成6年(1994年)には、本丸主殿など一部の建物が再建されました。
現在は、中世の城郭を知る貴重な資料として、また観光名所としても機能しています。
平成18年(2006年)には、日本100名城に指定されました。
- まとめ
- 根城は、青森一帯を支配した南部氏の一族、八戸南部氏の本拠地として南北朝時代から機能してきました。三戸南部氏が南部氏の宗家として認められたため、根城は城としての機能は失いましたが、江戸時代初期までは八戸南部氏の居城であり続けたのです。
そして現在は、主殿・工房・鍛冶場など近世の城郭には見られない設備が見学できます。
本丸跡地以外の遺構は公園になっており、市民の憩いの場として親しまれています。