HISTORY
東北で唯一の現存天守がある弘前城
弘前城は、鷹岡城、高岡城とも呼ばれる青森県弘前市下白銀町にある城です。江戸時代は弘前藩の藩庁として機能し、現在も江戸時代に作られた天守が東北で唯一残っています。そんな弘前城の歴史を紐解いていきましょう。
- 弘前城の誕生
- 弘前城は、地元の有力大名南部氏の配下であった大浦為信によって築かれました。大浦氏は小田原征伐の際、主人筋であった南部氏に先駆けて豊臣秀吉に所領安堵の朱印状を受け取ったことで、津軽地方の支配者になりました。その際、大浦姓を津軽にあらため、大浦為信は津軽為信になります。
文禄3年(1594年)津軽為信は弘前市堀越に堀越城を築きましたが、軍事に不向きであるとして、現在の場所に新しく城を作ることを決意しました。
その後、慶長5年(1600年)に関ヶ原の合戦が起こると津軽為信は徳川家康率いる東軍につきます。その功績を評価されて2千石が増加され、4万7千石の弘前藩が成立しました。
慶長8年(1604年)に津軽為信は弘前城の築城を開始しますが、翌年に京都で客死してしまい、築城は中止されます。為信の跡を継いだ津軽信枚が築城を再開し、慶長11年(1611年)に1年1か月の短期間で城を完成させました。このときの城の名前は鷹岡城でした。以後、弘前城は津軽藩の藩庁として幕末まで機能します。
- 天守閣の炎上と再建
- 当時としては驚異的な速さで作られた弘前城(鷹岡城)ですが、寛永4年(1627年)に落雷によって天守や本丸御殿、櫓などが焼失してしまいます。落雷の火災にしては消失規模が大きいのは、天守の内部に火薬が蓄えられており、それに引火したためと伝わっています。以後、200年間に弘前城は天守がないままとなります。この落雷火災の後、寛永5年(1628年)に津軽信枚は帰依する天海僧正のすすめに従い、「鷹岡」を「弘前」に改名し、城の名前は弘前城になりました。
文化7年(1810年)9代藩主津軽寧親のとき、幕府に「三層櫓を新築する」という名目でようやく天守閣を再建することが認められます。このとき再建されたのが、現在も「現存する日本一低い天守閣」として知られる3層3階の御三階櫓です。
- 明治以降の弘前城
- 明治を迎えると、廃城令が出されて全国の城が一斉に取り壊されはじめます。弘前城も例外ではなく、明治6年(1873年)に本丸御殿や武芸所等が取り壊されました。その後、旧藩主津軽氏が城跡を市民公園として解放するので城の敷地の貸与を陸軍に申し出て許可されます。そのため、弘前城の建物はそれ以上の取り壊しを免れました。
明治28年(1895年)弘前城は「弘前公園」として広く一般に開放され、櫻がたくさん植えられて桜の名所となります。
昭和12年(1937年)に三の丸東門を除き現存する弘前城の建物が国宝(現重要文化財)に指定されました。
その後、昭和25年(1950年)に重要文化財となり、現在に至ります。
なお、その後弘前城は国の史跡に指定されたため正式名称が「津軽氏城跡」に変更されました。
- 現在の弘前城
- 現在の弘前城は、御三階櫓(天守)と辰巳櫓・丑寅櫓・未申櫓、三の丸追手門・三の丸東門・二の丸南門・二の丸東門・北の郭北門(亀甲門)が築城当時のまま現存しており重要文化財に指定されています。また、弘前公園は約2,600本の桜が植えられており、「桜の名所」として全国的に有名です。ゴールデンウィークにちょうど桜が見頃となるため、全国各地から最後の桜を堪能しようと訪れます。
このほか、秋の菊や冬の雪灯籠など季節に合わせた祭や催し物が行なわれ、その度に多くの地元の人や観光客で賑わう場所です。