弘前城青森県弘前市

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弘前城DATA
天守 現存天守
別称 鷹岡城、高岡城
築城 1611年
住所 青森県弘前市下白銀町1
電話番号 0172-33-8739
開館時間 午前9時~午後5時
休館日 11月24日~3月31日
登閣料 大人320円・小人100円

弘前城は東北で唯一の現存天守。国の重要文化財に指定。

弘前城への交通アクセス
JR奥羽本線「弘前」駅からバス約15分。

HISTORY 東北で唯一の現存天守がある弘前城

弘前城は、鷹岡城、高岡城とも呼ばれる青森県弘前市下白銀町にある城です。江戸時代は弘前藩の藩庁として機能し、現在も江戸時代に作られた天守が東北で唯一残っています。そんな弘前城の歴史を紐解いていきましょう。

弘前城の誕生
弘前城は、地元の有力大名南部氏の配下であった大浦為信によって築かれました。大浦氏は小田原征伐の際、主人筋であった南部氏に先駆けて豊臣秀吉に所領安堵の朱印状を受け取ったことで、津軽地方の支配者になりました。その際、大浦姓を津軽にあらため、大浦為信は津軽為信になります。
文禄3年(1594年)津軽為信は弘前市堀越に堀越城を築きましたが、軍事に不向きであるとして、現在の場所に新しく城を作ることを決意しました。
その後、慶長5年(1600年)に関ヶ原の合戦が起こると津軽為信は徳川家康率いる東軍につきます。その功績を評価されて2千石が増加され、4万7千石の弘前藩が成立しました。
慶長8年(1604年)に津軽為信は弘前城の築城を開始しますが、翌年に京都で客死してしまい、築城は中止されます。為信の跡を継いだ津軽信枚が築城を再開し、慶長11年(1611年)に1年1か月の短期間で城を完成させました。このときの城の名前は鷹岡城でした。以後、弘前城は津軽藩の藩庁として幕末まで機能します。
天守閣の炎上と再建
当時としては驚異的な速さで作られた弘前城(鷹岡城)ですが、寛永4年(1627年)に落雷によって天守や本丸御殿、櫓などが焼失してしまいます。落雷の火災にしては消失規模が大きいのは、天守の内部に火薬が蓄えられており、それに引火したためと伝わっています。以後、200年間に弘前城は天守がないままとなります。この落雷火災の後、寛永5年(1628年)に津軽信枚は帰依する天海僧正のすすめに従い、「鷹岡」を「弘前」に改名し、城の名前は弘前城になりました。
文化7年(1810年)9代藩主津軽寧親のとき、幕府に「三層櫓を新築する」という名目でようやく天守閣を再建することが認められます。このとき再建されたのが、現在も「現存する日本一低い天守閣」として知られる3層3階の御三階櫓です。
明治以降の弘前城
明治を迎えると、廃城令が出されて全国の城が一斉に取り壊されはじめます。弘前城も例外ではなく、明治6年(1873年)に本丸御殿や武芸所等が取り壊されました。その後、旧藩主津軽氏が城跡を市民公園として解放するので城の敷地の貸与を陸軍に申し出て許可されます。そのため、弘前城の建物はそれ以上の取り壊しを免れました。
明治28年(1895年)弘前城は「弘前公園」として広く一般に開放され、櫻がたくさん植えられて桜の名所となります。
昭和12年(1937年)に三の丸東門を除き現存する弘前城の建物が国宝(現重要文化財)に指定されました。
その後、昭和25年(1950年)に重要文化財となり、現在に至ります。
なお、その後弘前城は国の史跡に指定されたため正式名称が「津軽氏城跡」に変更されました。
現在の弘前城
現在の弘前城は、御三階櫓(天守)と辰巳櫓・丑寅櫓・未申櫓、三の丸追手門・三の丸東門・二の丸南門・二の丸東門・北の郭北門(亀甲門)が築城当時のまま現存しており重要文化財に指定されています。また、弘前公園は約2,600本の桜が植えられており、「桜の名所」として全国的に有名です。ゴールデンウィークにちょうど桜が見頃となるため、全国各地から最後の桜を堪能しようと訪れます。
このほか、秋の菊や冬の雪灯籠など季節に合わせた祭や催し物が行なわれ、その度に多くの地元の人や観光客で賑わう場所です。

弘前城を藩庁とする、弘前藩の歴史

弘前藩津軽家が治め続ける
弘前藩は、現在の青森県西部に位置していた藩です。支藩に黒石藩をもち、津軽藩が江戸時代を通じてこの藩を治め続けました。ここでは、弘前藩の歴史を詳しく紹介していきます。 弘前藩の誕生 弘前藩は、大浦為信(
弘前藩
弘前藩DATA
藩庁 弘前城
旧地域 陸奥国津軽郡
石高 10万石
譜代・外様 外様
主な藩主 津軽家
推定人口 28万人(明治元年)

南部氏の家臣であった津軽為信が南部氏の領土の一部を切り取る形で独立。

桜の名所・弘前城 東北唯一の現存天守

青森県弘前市にある弘前城は、東北で唯一の現存天守を持つ城郭です。弘前城のある弘前公園は日本でも有数の桜の名所として知られており、春は多くの人でにぎわいます。冬には雪燈籠まつりが開催され、雪国らしい景色を堪能できるスポットです。

弘前城
弘前城の歴史
弘前城は弘前藩(現在の青森県西部)城主・津軽氏の居城で江戸時代に建てられました。津軽氏はもともと「大浦氏」と名乗る津軽地域の土豪でしたが、戦国時代に津軽地方を統一。関ヶ原の戦いでは東軍につき、当主の津軽為信はその功績で弘前藩4万7千石の領主になります。
為信はそれまでの居城だった堀越城に代わり、慶長8年(1603年)に高岡(のちに弘前に改名)に新たな城を建て始めました。ところが為信は翌年病死してしまい、城は跡を継いだ息子の津軽信枚により慶長16年(1611年)に完成しました。
寛永4年(1627年)、天守が落雷により炎上。雷は鯱に落ち、城の5層目から順に燃え広がり、城に貯蔵されていた火薬に引火して大爆発を起こしました。その火柱は約20km離れた碇ヶ関(青森県平川市碇ヶ関)からも見えたのだとか。
弘前藩としてはすぐに天守を再建したいところですが、武家諸法度により城の新築は禁止されており、補修や再建についても幕府の許可が必要でした。このため弘前城は約200年も天守がないままでした。 天守が再建されたのは9代目藩主の津軽寧親の時代で、蝦夷地(北海道)の警備の功績により「天守櫓移築」が許されました。
ここでポイントなのが、弘前藩は幕府に「天守の新造」ではなく「領内・海辺も見通すための櫓台の改築」を申請していること。当時、日本にはロシア船がたびたび来航し、文化3年(1806年)と翌4年(1807年)にはロシアが樺太・択捉を襲撃したことから(文化露寇)、幕府はロシア船の打払令を発布していました。このため海防を目的とした申請が許可されたようです。
こうして文化7年(1810年)、本丸の辰巳櫓を解体・再築するかたちで天守は完成し、現在に至ります。
弘前城の見どころ①天守閣
弘前城の天守は3層3階で、各階をだんだん小さくしながら積み上げる「層塔型」天守です。重要文化財にも指定されています。
天守は東面と南面に矢狭間をつけ、1、2層には中央に張り出しをつけ切妻破風、石落としを設けています。一方で北面と西両には破風等を設けず、大きな窓があるシンプルな形にしています。これは幕府の目を欺くためだった、との話が伝わっています。天守を作るには格好をつけたいが、やりすぎると幕府に目を付けられてしまう…。このため本丸から見える面を簡素な造りにし、幕府の役人の視察をうまく免れたというわけです。
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弘前城の見どころ②曳屋された天守閣&石垣工事
弘前城の天守閣は2015年から今に至るまで、石垣の修理事業のため本丸にある仮天守台に引っ越し中です。重さ400トンの天守は曳屋で約70m移動され、今の仮天守台に置かれました。曳屋の様子は一般公開され、多くの人が集まりました。戻す際も公開型になる予定です。
天守下の石垣の一部が膨らんでしまったことなどから実施が決まった工事ですが、2185個の石を取り除いて再度積み直す本格的なもので、早ければ2025年度中に終了する予定です。工事の様子は一部見学できるようになっています。工事に伴う発掘調査では埋没石垣や井戸跡など新たな発見が続いており、今後の調査にも期待がかかります。
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弘前城の見どころ③重要文化材の櫓や門
弘前城は天守のほかにも3棟の櫓と5棟の城門が重要文化財に指定されています。このうち櫓はいずれも二の丸にあり、入母屋の屋根に3層3階の土蔵造りです。辰巳櫓・未申櫓・丑寅櫓と天守から見た方角の十二支名がついています。このうち辰巳櫓は歴代当主が登り、弘前八幡宮の山車行列などを観覧したと伝わっています。
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弘前城のおすすめイベント、弘前さくらまつりと雪灯篭祭り
弘前城のある弘前公園では毎年4月中旬から5月初旬に「弘前さくらまつり」が開催されます。リンゴの暫定技術を応用して管理された約2600本の桜は広がるように花を咲かせ、公園内がピンク色に染まります。ソメイヨシノに加え、ヤエベニシダレなどの八重桜も美しく、桜と天守のコラボは必見です。
外濠は水面一面が桜の花びらで埋め尽くされており、「花筏」「桜の絨毯」と呼ばれる絶景スポットとして人気を博しています。
冬の弘前公園の一大イベントが「雪灯篭祭り」。約150基に及ぶ雪燈籠や雪像、ミニかまくらが公園内に配置され、灯りをともされ宵闇に浮かび上がります。仮天守台周辺をずらりと囲む雪燈籠はとても幻想的です。
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おすすめ撮影スポット
弘前城の王道の撮影場所は下乗橋の上で、真っ赤な橋の欄干と弘前城の天守を収めるもの。ポスターでよく見る構図ですが、現在は天守が移動しているので撮影不可。現在は仮天守の横の展望デッキから岩木山を背景にした弘前城を撮影できます。
桜のシーズンは追手門口周辺から「花筏」を撮影しましょう。このほか、春陽橋のあたりからは約300m続く桜のトンネルが撮影できますよ。
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栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
日本の城フォトコンテスト.04