HISTORY
八戸藩の本拠地だった八戸城
八戸城は、八戸南部氏が居城とした城の1つであり、盛岡藩から八戸藩が分離した際に藩庁となった城です。天守や隅櫓などは計画だけで建築されませんでしたが、根城が廃城となった後は、八戸南部氏の拠点にもなりました。そんな八戸城の歴史を紐解いていきましょう。
- 八戸城築城まで
- 八戸城は、八戸南部氏の本拠地である根城を築いた南部師行の弟、南部政長の三男にあたる南部信助が根城の支城として築いたのが始まりと伝わっています。その後、八戸南部氏から枝分かれしたこの一族は「中館(なかだて)氏」を名乗ります。そのため、居城は中館と呼ばれるようになりました。
安土桃山時代、八戸南部氏が三戸南部氏の支配下に入り、江戸時代になると三戸南部氏が盛岡藩を開きます。寛永4年(1627年)に八戸南部氏22代目の八戸直義の時代、初代盛岡藩主南部利直によって遠野国替えとなると中館氏もそれに従い、八戸の地は盛岡藩の直轄地になりました。
南部利直の後継であり、2代目盛岡藩藩主の南部重直が嫡子を残さず亡くなったため、4代目将軍徳川家綱が、重直の弟・七戸重信に2万石減封して盛岡8万石を与えて家を継がせます。そして、残った2万石をもう1人弟中里直好に与えて八戸藩として独立させます。
中里直好は南部直房と名を改めます。そして、盛岡藩時代に造られた三八城山の建物を改修して八戸城としました。
- 江戸時代以降の八戸城
- 八戸城は城といっても櫓や天守閣などは計画だけで建築されることはありませんでした。
藩庁は御殿に設置され、城よりも「館」といったほうが良いような建築物であったと推察されます。
文政12年(1829年)に新御殿に建て替えられ、天保9年(1838年)に湾岸警備の功績が認められ、はじめて「城」として認められたという記録も残っています。
明治4年(1871年)廃藩置県によって廃城となり、跡地は三八城神社になりました。
その後、城跡は公園として整備され、現在は市民の憩いの場になっています。
発掘調査などは一通り行われましたが、現在遺構などはほとんど残っていません。
- まとめ
- 八戸城は城と名乗っていますが、櫓や天守閣は築かれず、御殿や書院などのみの館のような造りの建物でした。現在は、八戸城角御殿表門が南部会館に移築されて青森県の重宝に指定されています。また、旧八戸城東門は八戸市根城史跡の広場の入り口となっています。