HISTORY
源氏の名門佐竹氏が築いた久保田城
久保田城は、秋田県秋田市にあった平城です。江戸時代になって築城されたので、石垣がほとんどなく土塁と堀を巡らせた城で、天守閣も最初から作られませんでした。また、幾度も火災に見舞われた城としても知られています。そんな久保田城の歴史を紐解いていきましょう。
- 江戸時代に入って築城された城
- 久保田城は、久保田藩初代藩主である佐竹義宣が築いた城です。佐竹義宣は、源義光を祖とする源氏の一族で伊達政宗の母方の従兄弟でもあります。伊達政宗と東北の覇権を巡って争い、豊臣秀吉に所領を安堵されたという経緯があります。また、石田三成の命を救ったという説話でも有名です。
佐竹義宣は、一時期北関東最大の勢力をほこる大大名でしたが、関ヶ原の戦いで実質的に西軍に味方したため、秋田へ移封となり、所領も54万石から20万石へ減らされました。しかし、佐竹義宣はこれにめげず家臣団を再編成し秋田での支配体制を確立し、幕末まで久保田藩の藩主であり続けた佐竹家の基礎を築きます。
なお、佐竹義宣は大阪の夏の陣・冬の陣で優れた武勲を立て、徳川家康に感状を受けたという逸話が残っています。
佐竹義宣は慶長7年(1602年)にかつてこの地を治めていた秋田氏の居城であった湊城に入城しますが、5万石の大名でしかなかった秋田氏の居城は手狭だったので、翌年より久保田城の築城に着手します。佐竹義宣は、久保田城だけでなく城下町や街道の整備も同時に始めました。久保田城は慶長9年(1604年)に竣工します。石垣がほとんどなく、土塁と堀を張り巡らし天守閣を最初から作らないといった太平の世に建造された城らしいの造りです。
久保田城は、記録に残っているだけでも寛永12年(1633年)、安永5年(1776年)、寛政9年(1797年)の3回火災にあっています。その度に再建工事が行なわれて建物も建て直されましたが、明治13年(1880年)に城内の建物が全て焼失する火災がおき、久保田城は往年の面影をなくしてしまいました。
- 明治以降の久保田城
- 久保田城は、明治を迎えると一旦陸軍省の持ち物になり、明治23年(1890年)に幕末まで久保田藩主を務めた佐竹氏に払い下げられ、城跡は千秋公園として整備されました。公園内には、あきた芸術劇場ミルハス、秋田市立中央図書館明徳館、秋田市文化創造館、秋田市立佐竹史料館などもあり、観光客ばかりでなく地元の方の憩いの場となっています。
昭和59年(1984年)、佐竹氏が千秋公園を秋田市に寄贈します。
その後、平成元年より本丸新兵具隅櫓(御隅櫓)、本丸表門などが復元されました。
平成18年(2006年)には、日本100名城の9番目に指定され、現在にいたります。
- まとめ
- 久保田城は日本の城郭としては新しく江戸時代に入ってから建築された城ですが、4度の火災に見舞われて、往年の建物はほぼ焼失してしまいました。また、土塁や堀なども大部分が取り壊され、当時の面影を偲ぶものは復元された表門や櫓のみです。
しかし、千秋公園は秋田の名跡として名高く、四季折々の花々などを楽しめます。
久保田城と関連する人物記を読む
- 佐竹義重鬼義重
- 平安時代の終わりから常陸国(現在の茨城県)に1つの大名がいました、佐竹家です。戦国時代、この佐竹家の当主に就いたのが佐竹義重でした。義重は南の北条氏政や北の伊達政宗と争いながら常陸国を統一していきます