HISTORY
石の城と呼ばれる石垣が美しい城「丸亀城」
丸亀城は香川県丸亀市にある平山城です。亀山の山頂に建ち、山麓から山頂まで4重に重ねられた石垣が特徴であり、石垣の頂上に鎮座する天守は現存する12天守の中で最小です。そんな丸亀城の歴史を紐解いていきましょう。
- 室町時代〜丸亀城築城までの歴史
- 丸亀城の始まりは、室町時代初期に管領・細川頼之の重臣であった奈良元安が亀山に砦を築いたことが始まり、という説があります。
時代は下り、慶長2年(1597年)豊臣政権の三老中の1人であった生駒親正が讃岐国12万6千200石を与えられ、長男一正と共に丸亀城築城に着手します。
なおこのとき、生駒親正は高松城を本城としており、丸亀城はあくまでも支城扱いでした。
慶長7年(1602年)約6年の歳月をかけて丸亀城が完成します。
当時の丸亀城は、織田信長が築いた安土城や豊臣秀吉が築いた大阪城同様城郭だけでなく、武家屋敷・城下町も濠や土塁で防御していました。このような造りを「総構え」といいます。
丸亀城が完成したときは、すでに「天下分け目の戦い」といわれた関ヶ原の戦いは終わっていましたが、生駒親正は西軍、嫡男の生駒一正は東軍につき、家の存続を図ったため徳川幕府に警戒心を抱いていたかもしれません。
また、生駒親正は、慶長6年(1601年)に宇多津より家臣を移住させて城下町を形成させました。
- 江戸時代の丸亀城の歴史
- 元和元年(1615年)諸大名に対し、居城以外のすべての城の破却を命じる一国一城令が発布されました。このとき、生駒家は高松城を本城としていたため、丸亀城は破却の危機にさらされます。
しかし、このときに藩主であった生駒正俊は丸亀城を破却から守る為に、城を樹木で覆い隠すなどして、立ち入りを厳しく制限するなどして破却を防ぎます。
そのお陰で丸亀城は現在まで残ることになりました。なお、この時期丸亀城はいったん廃城となります。
寛永17年(1640年)、生駒家にお家騒動(生駒騒動)が起き、生駒家は改易となり出羽国矢島に転封となりました。
これにより、生駒家が治めていた高松藩は幕府直轄地となり、翌寛永18年(1841年)に山崎家治が肥後国富岡(現熊本県天草郡)から5万石で移封され、丸亀藩が成立しました。
このとき、山崎家治が丸亀城の改築に着手します。一説によると、幕府は瀬戸内の島々に住むキリシタンが一斉に蜂起することを警戒し、備えとして丸亀城を整備させたと言われています。
実際、幕府はわざわざ山崎家治に300貫もの資金を援助し、参勤交代を免除してまで城の改築を急がせています。
この改築により、現在まで伝わる「扇の勾配」と呼ばれる独特の反りを持つ石垣が完成しました。この石垣は野面積みと算木積みで土台を造り、頂は垂直になるよう独特の反りを持たせています。
なお、丸亀城の石垣は全ての高さを合わせると66m、になり「総高」では日本一です。
万治元年(1658年)山崎氏が3代で後継ぎなく途絶えるとお家断絶となり、播磨国龍野(現兵庫県たつの市)より京極高和が6万石で移封し、明治まで丸亀藩を治めました。
なお、丸亀城は万治3年(1660年)に京極高和が城の裏口にある海側の搦め手門を大手門に改築し、現存する3層3階の御三階櫓を建築します。
このような改修が完了し現在の丸亀城の姿になったのは、延宝元年(1673年)の事です。
以後、丸亀城は明治維新まで丸亀藩の藩庁になりました。
- 明治以降の丸亀城
- 明治になると、廃城令が明治政府より発布されて日本中の城が壊されますが、丸亀城は明治2年(1869年)- 主御殿と三の丸の戌亥櫓が火災により焼失してしまいます。
そのため、一度は焼け残った建物が競売にかけられましたが、兵部省管轄になり、競売は注視されました。
また、明治9年(1876年)から翌年にかけて現存の建物以外の櫓・城壁などが解体されます。その後、大正8年(1919年)に丸亀市が山上部を借地し、亀山公園として市民に開放します。
昭和8年(1933年)には城下にあった丸亀藩主京極家の別邸延寿館を三の丸に移築します(1985年に本邸は解体、現在は別邸のみ残る)。
昭和18年(1943年)には、天守が国宝保存法に基づき旧国宝に指定されますが、昭和25年(1950年)には、文化財保護法施行により天守は重要文化財に改めて指定され直します。
その後、昭和28年(1953年)国の史跡に指定されたことをきっかけに、昭和32年(1957年) 大手一の門・大手二の門が重要文化財に指定されました。
平成18年(2006年)には日本100名城に指定され、丸亀市を代表する観光名所として、国内外から多くの人が訪れています。
- 現在の丸亀城
- 現在の丸亀城は、基本的に年中無休で公開されています。丸亀の山頂にあるため、城までの道のりは勾配がきついですが、ロープウエーなどの設備はありません。
天守のほか、大手一の門・大手二の門・藩主玄関先御門・番所・御籠部屋・長屋が現存しているほか、江戸時代に城を改築する際に幕府に提出されたという「丸亀城木図」という木型の立体模型が現存しており、隣接する丸亀市立資料館で見学することが可能です。
丸亀お城祭や丸亀城桜祭りの際は、県内外から多くの人が訪れます。
また、藩主京極家の宝刀として伝わる「ニッカリ青江」という刀がブラウザゲーム「刀剣乱舞」に取り上げられたことによって知名度が高まり、現在は毎年公開が行われています。