HISTORY
築城の名手藤堂高虎によって建てられた宇和島城
宇和島城は、1601年に築城の名手と名高い藤堂高虎によって現在の愛媛県宇和島市丸之内に建造された平城です。築城当時は城の東側に海水を満たした水堀があり、城の西側半分が海に面していたので、水運を抑える水城でもありました。
そんな宇和島城の歴史を紐解いていきましょう。
- 宇和島城の前身
- 宇和島城が築城された場所には、板島丸串城という城がありました。
元々この地は「橘遠保」という官人の持ち物で、彼は藤原純友の乱を平定した功でこの地を与えられたと伝わっています。
この橘遠保が構えた砦が板島丸串城の始まりであり、建仁3年(1203年)に橘氏に変わって西園寺公経が伊予国の知行国主に任じられると、この地の再開発が始まります。
室町末期に豊後の大友氏が宇和島に盛んに侵攻するようになると板島丸串城は砦から城に作り替えられました。
その後、宇和島は 豊臣秀吉の四国討伐により小早川隆景の領地になります。
文禄4年(1595年)宇和島の地は藤堂高虎に与えられます。
藤堂高虎は当時板島と呼ばれたこの地を宇和島と改名、一揆などによって荒れ果てていた板島丸串城の跡地に本格的な築城工事城を始めました。
- 江戸時代の宇和島城
- 藤堂高虎による築城は慶長5年(1601年)に終了します。築城当初の宇和島城は標高74メートルの丘陵の山頂に本丸、それを囲むように二の丸や藤兵衛丸、代右衛門丸を配置し、麓に三ノ丸を配置した梯郭式の平山城でした。
各郭が山頂部に集中している様式は中世的な造りですが、山麓部には追手門や搦手門を設ける近代的な造りも備えています。
その後、藤堂高虎は慶長13年(1608年)に伊勢津藩へ移封されました。
藤堂高虎が移封したあと、宇和島藩主の座は富田信高を経て伊達秀宗が移ります。
伊達秀宗は、徳川秀忠より贈られた伏見城の千畳敷御殿を三の丸に移築しました。
この頃より、宇和島城という呼び名が定着します。
慶安2年(1649年)、宇和島を襲った大地震により宇和島城の石垣116間、長屏780間が倒壊しました。
城の修復は慶安3年(1650年)から寛文6年頃(1666年) までかかります。この際に再建築された天守が現存しているものです。
なお、このとき幕府には「修理」として届けられていましたが、実際はほぼ造り直しに近く、現在では藤堂高虎の築いた城の名残は石垣などに僅かな部分に残っているだけです。
その後、宇和島城は安政元年(1854年) に起こった安政の大地震のときにまた大打撃を受けます。
その後、万延元年(1860年)に万延の大改修によって宇和島城は再び修復され、そのまま幕末を迎えました。
- 明治時代以降の宇和島城
- 明治4年(1871年)宇和島城は明治政府兵部省に帰属し、大阪鎮台の所轄になりました。
その後、宇和島港の改築によって掘りの大部分が埋め立てられ、城門や櫓といった天守意外の建物も解体されます。
その一方で、昭和9年(1934年)に天守・追手門(大手門)が戦前の法律に沿って国宝に指定されました。また、昭和12年(1937年)には国の史跡に指定され、宇和島市の管理下に置かれます。
昭和20年(1945年)戦争末期の空襲によって追手門が消失しました。
昭和24年(1949年)には、幕末まで城主を務めた伊達家が天守を含む城山の大半を宇和島市に寄贈します。
昭和25年(1950年)には重要文化財保護法により、宇和島城の天守などが重要文化財に指定されました。
平成18年(2006年)に日本百名城に指定されます。
- 現在の宇和島城
- 現在の宇和島城は、宇和島市の観光名所であると同時に珍しい植物の宝庫となっています。
宇和島城は江戸時代半ばから約300年開発や伐採を免れているため、宇和島市ではもうここだけしか見られない植物もあり、植物好きの聖地にもなっています。
毎年ゴールデンウィークには「うわじまお城祭」が行われ、全国から観光客が訪れます。
宇和島城と関連する人物記を読む
- 藤堂高虎多数の主君に仕えた築城の名手
- 藤堂高虎は弘治2年(1556年)、近江国(滋賀県)犬上群藤堂村において、藤堂虎高の次男として誕生しました。幼名を与吉といいます。父の虎高は、近江鯰江城主だった三井乗綱の次男として生まれますが、若い頃は