HISTORY
市民の力によって木造で復元された大洲城
大洲城は、愛媛県大洲市にある平城です。大津城・地蔵が岳城など数多くの別名を持つこの城は、第二次世界大戦後初めて木造で天守閣が復元されました。そんな大洲城の歴史を紐解いていきましょう。
- 江戸時代以前の大洲城
- 大洲城は、鎌倉時代末期に守護として同地に赴任した伊予宇都宮氏の祖、宇都宮豊房が築いた城が前進と言われています。当初の築城場所は肱川と久米川の合流点にあたる地蔵ヶ岳に築城したため、地蔵ヶ岳城と呼ばれました。伊予宇都宮氏は、その後国人として二百年以上大洲の地を支配します。しかし、永禄10年(1567年)に安芸国の戦国大名である毛利氏の伊予国出兵の際に、領地に攻め込まれて降伏しました。伊予宇都宮氏はその後土佐国を治めていた戦国大名、長宗我部元親と通じた家臣によって大洲城(地蔵ヶ岳城)を追われます。
その後、大洲の地は豊臣秀吉の家臣である小早川隆景によって天正13年(1585年)に再び平定され、最終的に彼が35万石で伊予国の大名となりました。なお、小早川隆景は毛利元就の息子であり、その子どもが関ヶ原の戦いで西軍を裏切ったことで有名な小早川秀秋です。
しかし、小早川隆景は数年後に筑前に移封されると伊予国は戸田勝隆に与えられます。この国替えは領民にとって不評だったようで、領主に反発するように一揆が起きています。戸田勝隆は、文禄3年(1594年)に朝鮮から日本に帰国する途中で病死しました。
文禄4年(1595年)、新たな国主として藤堂高虎が国入りします。藤堂高虎は豊臣秀吉の家臣でありながら彼の死後すぐに家康に接近して親交を深め、外様大名でありながら家康の側近になったという人物です。また黒田孝高、加藤清正と共に築城3名人の1人にも数えられています。藤堂高虎は、大洲城を近世城郭として整備し、現在復元されたような姿にしました。
- 江戸時代の大洲城
- 江戸初期の慶長14年(1609年)に淡路の洲本から脇坂安治が伊予国に移封されます。そのころの大洲は、伊予を南北につなぐ大洲街道・宇和島街道の結節点となり、また東には四国山脈を抜けて土佐国に出る街道も通っていました。つまり、四国における交通の要所だったのです。藤堂高虎はこの点に考慮して、彼を家康に後釜として推薦したと言われています。
大洲城の改築は脇坂安治が統治した時代も続けられ、天守閣なども建築されました。
また、この時代に地名が旧名の大津から大洲へと変更されます。
元和3年(1617年)に伯耆米子から6万石で加藤貞泰が移封され、以後加藤家が明治維新まで大洲の地を治めました。
- 明治以降の大洲城
- 明治になると、政府の廃城令によって城の建物はほとんど取り壊されます。しかし、地元住人が保存を望んだため、本丸の天守と櫓は残されましたが、明治21年(1888年)天守と櫓は老朽化などを理由に取り壊されました。
昭和32年(1957年)戦争を耐えた台所櫓、高欄櫓、苧綿櫓、三の丸南隅櫓が重要文化財に指定されます。それをきっかけに昭和34年(1959)~昭和45年(1970年)にかけて苧綿櫓など現存する建物の解体修理が順次すすめられていきました。
そして平成6年(1994年)、天守閣の復元プロジェクトがスタートします。大洲城は江戸時代初期に大改築された城には珍しく図面などの資料が現存していたほか、明治初期に撮影された写真も残されていました。
通常、復元される天守閣は強度や防火の面から鉄筋コンクリートで造られますが、大洲城は専門家らによる伝統工法を用いた技術によって、四層四階の天守が木造で再建されました。
木造で再建された天守は戦後初めてであり、復興あたり市民からは多額の寄付が行われています。完成までの年月は実に10年、その過程は大洲城の公式ホームページで見られます。
現在の大洲城は広く一般に公開されているだけでなく、文化財活用の一環として城に泊まることができます。「大洲城キャッスルステイ」と名付けられたこの企画は、城主の入城を甲冑を着て再現できたり伝統芸能を鑑賞できたりする盛りだくさんなもので、歴史ファンはもちろんのこと外国人観光客にも大人気です。
- まとめ
- 大洲城は鎌倉時代から続く長い歴史を持ち、築城の名人藤堂高虎が大改築し、平成の時代に当時の技法で蘇った唯一無二のお城です。周辺には新谷藩陣屋跡の麟鳳閣などの史跡もあり、レンタサイクルなどで巡ってみるのもおすすめです。
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- 藤堂高虎多数の主君に仕えた築城の名手
- 藤堂高虎は弘治2年(1556年)、近江国(滋賀県)犬上群藤堂村において、藤堂虎高の次男として誕生しました。幼名を与吉といいます。父の虎高は、近江鯰江城主だった三井乗綱の次男として生まれますが、若い頃は