HISTORY
親藩・松平家が建造した山の上の城・伊予松山城
伊予松山城は愛媛県松山市にあった平城です。現在も標高132mの勝山に天守が残っており、現存12天守の一つに数えられています。加藤嘉明によって建築され、現存の天守は徳川家康を伯父に持つ松平定行が始祖の松平家によって再建されたものです。そんな松山城の歴史を紐解いていきましょう。
- 加藤嘉明によって建てられた城
- 伊予松山城は、7本槍の1本に数えられ豊臣秀吉と徳川家康に仕えた武将「加藤嘉明」によって慶長7年(1602年)築城が開始された城です。
加藤嘉明は、伊予国正木城の城主で10万石の大名でしたが、関ヶ原の戦いの功績で20万石に増石され、城の建築に着手します。普請奉行に命じられたのは足立重信でした。
伊予松山城は、標高132mの勝山の山頂に天守を置き、西南麓に二之丸と三之丸を構える構造です。
- 天守は松山城と同じく連立式で、二之丸には御殿や茶室など藩主が生活したり政務を執り行ったりする建物が作られ、三之丸には重臣たちの家屋敷が作られます。
慶長3年(1603年)加藤嘉明は、松山に居城を移し土地の名前を「松山」にすると公にしました。
伊予松山城は江戸時代以前に山城や守護の居館があった場所ではなく、全くの更地に新しく建築された城です。
城の建築には実に25年ほどの月日がかかったと記録にあります。
加藤嘉明は、結局城の完成をこの目で見ることなく寛永7年(1627年)に改易された福島正則に代わって会津藩へ転封となり、蒲生忠知が松山藩の藩主として移封されてきました。
- 松平家の支配と伊予松山城の再建
- 寛永11年(1634年)、蒲生忠知が参勤交代の途中に急死し、後継ぎがいなかったために蒲生家は断絶します。松山藩は一度大洲藩主、加藤泰興が預かった後、翌年の寛永12年(1635年)に徳川家康を伯父に持つ松平定行が15万石で松山藩の藩主になります。
松平定行は、当時五重であった天守を三重に改築したと伝わっています。
- 当時、天守は物置に使用されていたそうなので、維持費節約のためだったかもしれません。
しかし、伊予松山城は天明4年(1748年)に落雷により天守を初めとする大部分が消失してしまいます。その後、安政元年(1854年)まで30年以上の年月をかけ、伊予松山城は再建されました。現在残っている天守部分の建物はすべてこのときに再建されたものです。
そのため、伊予松山城は現存する12の天守のうち、最も築年数が浅い城と言われています。
- 明治以降の伊予松山城
- 明治元年(1868年)伊予松山城は一旦土佐藩預かりになった後、失火により二之丸、三の丸の建物が相次いで焼失しました。
明治6年(1873年)廃城令が発布され、城は大蔵省、内務省所管になります。麓にあった城門ややぐら・御殿などは解体されますが、土地の入札者は出ませんでした。
その後、二之丸、三之丸は陸軍省に払い下げられ、松山歩兵第22連隊の駐屯地になります。-
- 大正12年(1923年)に本丸の建物が旧藩主家の久松家(松平家より改姓)に払い下げられ、そのまま松山市に寄贈され、伊予松山城は松山市の所有になりました。
昭和8年(1933年)松山城放火事件が発生し、江戸時代より残っていた建物の多くが消失します。
昭和10年(1935年)には消失を免れた天守など35棟の建造物が当時の国宝保存法に基づき国宝に指定されました。
しかし、昭和20年(1945年)には松山空襲、さらに1949年(昭和25年)には再び放火事件が起こり、伊予松山城は天神櫓を初めとする11棟の建物が消失してしまいます。
昭和25年(1950年)、焼け残った21棟の建物が重要文化財に指定され、保護が始まります。
昭和30年(1955年)になると二之丸・三之丸跡地の公園から勝山山頂まで繋ぐロープウエイが開通し、松山城は松山市を代表する観光地になりました。
昭和43年(1968年)には、松山城放火事件の際に消失した建物群が、復元されます。
そして、平成4年(1992年)大井戸など江戸時代の遺構や茶室が整備された松山城二之丸史跡庭園が落成しました。
- 現在の伊予松山城
- 現在の伊予松山城及び松山城公園は日本の歴史公園100選、日本の桜100選、日本の城100選に選ばれ、国内だけでなく国外からの観光客も大勢訪れています。
現在、伊予松山城で現存している当時の建物は、戸無門・乾櫓・紫竹門東塀、西塀などの21棟であり、その全てが重要文化財に指定されています。
なお、親藩松平家が建てた唯一の城であるため、建物の瓦には徳川家の紋である三葉葵の紋が刻まれています。
このほか、山頂から望む松山市の展望は最高です。
天守自体も23時までライトアップされているので、夜間のフォトスポットとしても人気があります。