松山城愛媛県松山市

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松山城DATA
別称 金亀城、勝山城
築城 1602年
住所 愛媛県松山市丸之内1
電話番号 089-921-4873
開館時間 午前9時~午後5時(時期により変動)
休館日 12月第3水曜日
登閣料 大人520円/小学生160円

松山城は現存する12天守の一つ。標高132mの城山(勝山)山頂に本丸がある広大な平山城。

松山城への交通アクセス
JR予讃線「松山」駅から「道後温泉行き」市内電車で約10分、「大街道」下車徒歩5分。

HISTORY 親藩・松平家が建造した山の上の城・伊予松山城

伊予松山城は愛媛県松山市にあった平城です。現在も標高132mの勝山に天守が残っており、現存12天守の一つに数えられています。加藤嘉明によって建築され、現存の天守は徳川家康を伯父に持つ松平定行が始祖の松平家によって再建されたものです。そんな松山城の歴史を紐解いていきましょう。

加藤嘉明によって建てられた城
伊予松山城は、7本槍の1本に数えられ豊臣秀吉と徳川家康に仕えた武将「加藤嘉明」によって慶長7年(1602年)築城が開始された城です。
加藤嘉明は、伊予国正木城の城主で10万石の大名でしたが、関ヶ原の戦いの功績で20万石に増石され、城の建築に着手します。普請奉行に命じられたのは足立重信でした。
伊予松山城は、標高132mの勝山の山頂に天守を置き、西南麓に二之丸と三之丸を構える構造です。
天守は松山城と同じく連立式で、二之丸には御殿や茶室など藩主が生活したり政務を執り行ったりする建物が作られ、三之丸には重臣たちの家屋敷が作られます。
慶長3年(1603年)加藤嘉明は、松山に居城を移し土地の名前を「松山」にすると公にしました。
伊予松山城は江戸時代以前に山城や守護の居館があった場所ではなく、全くの更地に新しく建築された城です。
城の建築には実に25年ほどの月日がかかったと記録にあります。
加藤嘉明は、結局城の完成をこの目で見ることなく寛永7年(1627年)に改易された福島正則に代わって会津藩へ転封となり、蒲生忠知が松山藩の藩主として移封されてきました。
松平家の支配と伊予松山城の再建
寛永11年(1634年)、蒲生忠知が参勤交代の途中に急死し、後継ぎがいなかったために蒲生家は断絶します。松山藩は一度大洲藩主、加藤泰興が預かった後、翌年の寛永12年(1635年)に徳川家康を伯父に持つ松平定行が15万石で松山藩の藩主になります。
松平定行は、当時五重であった天守を三重に改築したと伝わっています。
当時、天守は物置に使用されていたそうなので、維持費節約のためだったかもしれません。
しかし、伊予松山城は天明4年(1748年)に落雷により天守を初めとする大部分が消失してしまいます。その後、安政元年(1854年)まで30年以上の年月をかけ、伊予松山城は再建されました。現在残っている天守部分の建物はすべてこのときに再建されたものです。
そのため、伊予松山城は現存する12の天守のうち、最も築年数が浅い城と言われています。
明治以降の伊予松山城
明治元年(1868年)伊予松山城は一旦土佐藩預かりになった後、失火により二之丸、三の丸の建物が相次いで焼失しました。
明治6年(1873年)廃城令が発布され、城は大蔵省、内務省所管になります。麓にあった城門ややぐら・御殿などは解体されますが、土地の入札者は出ませんでした。 その後、二之丸、三之丸は陸軍省に払い下げられ、松山歩兵第22連隊の駐屯地になります。
大正12年(1923年)に本丸の建物が旧藩主家の久松家(松平家より改姓)に払い下げられ、そのまま松山市に寄贈され、伊予松山城は松山市の所有になりました。
昭和8年(1933年)松山城放火事件が発生し、江戸時代より残っていた建物の多くが消失します。
昭和10年(1935年)には消失を免れた天守など35棟の建造物が当時の国宝保存法に基づき国宝に指定されました。
しかし、昭和20年(1945年)には松山空襲、さらに1949年(昭和25年)には再び放火事件が起こり、伊予松山城は天神櫓を初めとする11棟の建物が消失してしまいます。
昭和25年(1950年)、焼け残った21棟の建物が重要文化財に指定され、保護が始まります。
昭和30年(1955年)になると二之丸・三之丸跡地の公園から勝山山頂まで繋ぐロープウエイが開通し、松山城は松山市を代表する観光地になりました。
昭和43年(1968年)には、松山城放火事件の際に消失した建物群が、復元されます。
そして、平成4年(1992年)大井戸など江戸時代の遺構や茶室が整備された松山城二之丸史跡庭園が落成しました。
現在の伊予松山城
現在の伊予松山城及び松山城公園は日本の歴史公園100選、日本の桜100選、日本の城100選に選ばれ、国内だけでなく国外からの観光客も大勢訪れています。
現在、伊予松山城で現存している当時の建物は、戸無門・乾櫓・紫竹門東塀、西塀などの21棟であり、その全てが重要文化財に指定されています。
なお、親藩松平家が建てた唯一の城であるため、建物の瓦には徳川家の紋である三葉葵の紋が刻まれています。
このほか、山頂から望む松山市の展望は最高です。
天守自体も23時までライトアップされているので、夜間のフォトスポットとしても人気があります。

松山城を藩庁とする、伊予松山藩の歴史

伊予松山藩三つの家が治める
伊予松山藩は愛媛県松山市、久米郡・野間郡・伊予郡などを領地に持っていた藩です。豊臣秀吉の七本槍の1人に数えられた加藤嘉明が初代藩主を務め、蒲生家、松平家の三つの家によって幕末まで治められました。ここで
伊予松山藩
伊予松山藩DATA
藩庁 松山城
旧地域 伊予国温泉郡
石高 12万石
譜代・外様 外様、親藩
主な藩主 加藤家、蒲生家、松平家
推定人口 21万人(明治元年)

世界が認めた天守からの絶景、松山城

愛媛県松山市にある松山城は、広大な縄張りが特徴の平山城です。標高132mの勝山の山頂にあり、ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン2009の2つ星に選ばれました。現存12天守の最上階からの眺望には定評があり、ライトアップの様子は日本夜景遺産に認定されています。

松山城
松山城の歴史
松山城は賤ヶ岳七本槍の一人・加藤嘉明が建造しました。関ヶ原の戦いの功績で嘉明は伊予松山藩20万石の藩主になり、それまで住んでいた正木城(現在の愛媛県松前市)から、松山平野の中心部にある勝山に居城を移します。幕府の許可を経て慶長7年(1602年)1月に築城を開始。翌年には地名を勝山から松山に変えています。
嘉明は谷を埋め山頂を広げるなど大工事を繰り広げ、山頂に本丸を据えて5重の連立式天守を築き、西側の山腹に二の丸を設けました。ところが工事半ばの寛永4年(1627年)、嘉明は会津40万石に移封となります。代わってやってきたのが会津の蒲生氏で、本家は断絶したものの出羽上山藩の藩主を務めていた蒲生忠知が跡を継ぎ、減封される形で松山藩に入りました。
忠知の時代には二の丸まで完成しますが、寛永11年(1634年)、忠知が参勤交代の途中に急死すると蒲生氏は断絶。寛永12年(1635年)に桑名藩主を務めていた松平定行が15万石で松山藩主になり、以後明治維新まで松平家が藩主を務めます。
松平定行は寛永16年(1539年)に松山城の大規模な改修をスタート。その際天守も改築され、幕府に遠慮したのか3重3層に小規模化しています。
その後天守は天明4年(1784年)元旦に落雷で焼失します。再建工事は文政3年(1820)から始まるも一度中断。結局完成したのは安政元年(1854)でした。これが現在まで残った天守で、現存12天守としては最も遅い完成です。
その後も松山城はたびたび火事や第二次世界大戦の戦禍にさらされて被害を受けます。小天守や多くの櫓や門などが焼失しましたが、一方で現在まで残された天守や櫓や門、堀もあり、計21棟が国の重要文化財に指定されています。
本丸にはロープウェイかリフトを活用して登ろう
松山城の本丸は標高132mの勝山の山頂にあることから、見学するには山を登る必要があります。一番楽なのはロープウェイやリフトを使う方法。東雲口駅から山頂の長者ヶ平駅までロープウェイで約3分、リフトで約6分です。天気が良い日は風を受けながら景色を楽しめるリフトがおすすめですよ。
徒歩で登城する場合は東雲口登城道が一般的。ほかにも登り石垣が見学できる県庁裏登城道、江戸時代の正規ルートである黒門口登城道と天守に向かう古町口登城道があり、本丸まで徒歩約30分から約40分程度です。
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松山城の見どころ①天守
本丸の北にある松山城の天守は各階をだんだん小さくしながら積み上げる「層塔型」の連立式天守です。3重3階の天守と2重2階の小天守・隅櫓2棟(共に1968年に復興)を四方に配置して渡櫓でつないでいます。
天守は本丸よりさらに約8m高い本壇(本丸の中枢部)内にあり、屋根は入母屋造で、1層・2層部分には千鳥破風や唐破風が置かれています。格子窓や突揚戸、狭間など戦の対策がされている一方、天井板や床の間や襖を入れるための敷居が作られており、普通に住めるようになっています。居住性の高い天守はなかなか珍しいですよ。
天守を改修した松平定行は徳川家康の異父弟・松平定勝の息子であり、「久松松平氏」は徳川一門として「三つ葉葵」の使用を許されていたことから、天守の瓦には現存12天守としては唯一三つ葉葵の家紋が見られます。
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松山城の見どころ②天守からの雄大な眺め
松山城天守からの眺めの良さは有名で、「天守からの眺望」としてミシュラン・グリーンガイド・ジャポンの1つ星に選ばれています。天守からの360度のパノラマはまさに絶景!松山市街に加え、天気が良い日は瀬戸内海や海の向こうの島々も見ることができますよ。
夏と秋の夜間特別営業期間中は天守から夜景が楽しめます。また、23時まで天守のライトアップを実施しており、城郭のインパクトを活かしたライトアップ等が評価され、日本夜景遺産にも選ばれています。
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松山城の見どころ③望楼型二重櫓
松山城には天守を含め21の重要文化財がありますが、そのなかでもぜひ見てほしいのが、日本で唯一現存する望楼型二重櫓「野原櫓」です。本丸の北側を守るために建てられており、建物の上に物見(望楼)を載せた形式は望楼型天守の原型ともいわれています。層塔型の天守との構造の違いを比べられるのは松山城ならではの特徴です。
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松山城の見どころ④石垣
松山城の石垣のほとんどは江戸時代初期の加藤嘉明の時代に築かれました。打込ハギのものがほとんどで、一部切込ハギの部分もあります。本丸大手の隠門・隠門続櫓の下には高さ17m超の石垣があり、ぎっしり詰まった石垣はもはや芸術です。
本丸にはジグザクと折れ曲がった高さ14m超の「屏風折」の石垣があります。折り目を増やして強度を増すとともに、石垣を屈曲させて敵を複数の方向から攻撃できるようにとの工夫です。
また、松山城には全国では珍しい登り石垣があります。石垣を山の斜面に沿って築くことで山腹からの敵の侵入を阻止しようとしたもので、豊臣秀吉が朝鮮を攻めた文禄・慶長の役の際に朝鮮半島南岸に築いた「倭城」でよく見られます。現存12天守の城郭では松山城と彦根城にしかありません。
松山城の登り石垣は2本の石垣でふもと二の丸と山頂を結んでおり、長さは230m超と日本一!南側の部分がほぼ完璧な形で現存しています。
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おすすめフォトスポット
松山城は松山市のランドマークとなっており、半径2㎞圏内ではなんと約60ヶ所から見ることができます。城山公園や市役所前榎町通りからは松山城を見上げた写真が撮影可能。本丸の一ノ門前からの天守の眺望も見事です。
天守を撮影するのであれば本丸広場からがおすすめ。夜のライトアップの際も美しい写真が取れます。町の夜景は隠門付近の広場からが美しいですよ。夜間開館中はぜひ天守に登って撮影してみてください。もちろん、日中の天守からも絶景が望めます。
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栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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