HISTORY
日本三大水城の1つ今治城
今治城は、愛媛県今治市に築かれていた海城です。築城の名手藤堂高虎が建築し、香川県の高松城、大分県の中津城と並んで日本三大水(海)城の1つに数えられています。そんな今治城の歴史を紐解いていきましょう。
- 藤堂高虎によって築かれた海城
- 今治城は慶長7年(1602年)に藤堂高虎によって築城されました。藤堂高虎は主君を転々と変えた後で豊臣秀吉の弟、豊臣秀長や甥の豊臣秀保に使えて武功を挙げ、300石から大名に出世した人物です。豊臣秀吉の死後に徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いでは、東軍に味方しました。このとき、藤堂高虎は宇和島8万石を与えられていましたが、関ヶ原の戦いの後に報償として今治12万石が与えられたのです。
これまでの今治支配の拠点は唐子山山頂にあった国府城でしたが、藤堂高虎は瀬戸内海の交通の要所である来島海峡の監視や、機能的な都市をつくるために今治の海岸部に城を作ると決めます。普請奉行には渡辺了が任じられ、2年の歳月をかけ慶長9年(1604年)に今治城は完成しました。築城当時の今治城は海水を取り込んで三重の堀を作り、石垣を高く積んで櫓などを建てる構造でした。なお、内堀と高さ13mに及ぶ石垣は現在も当時のままの姿で残っています。当時は船で海から堀に直接はいることができる構造だったと記録に残っています。ほぼ真四角な設計で、二之丸・藩主館、中堀以内に側近武士の屋敷が築かれました。さらに外堀以内に侍屋敷が作られ、城門が9ヶ所、櫓が20ヶ所もある広大さでした。また、天守は当時流行していた入母屋造破風を持つ望楼型天守ではなく、層塔型天守で作られています。なお、後年藤堂高虎が普請した江戸城も層塔型天守であり、この時期に天守の形の主流が大きく変わったことが分かります。
海水を引き込んだことにより、今治城の堀にはヒラメやイシダイ・スズキなどの海水魚が生息するようになりました。その一方で、堀の中には真水が湧き出している場所もあり、そこには淡水魚が生息しています。日本でも類を見ない生態系を誕生させた堀の環境は現在も変わっていません。
慶長14年(1609年)、藤堂高虎は伊勢国津城に移封されます。それに合わせて今治城の天守は解体されて京都府亀山市にあった亀山城に移築されました。移封後も今治2万石は藤堂高虎の養子であり、丹羽長秀の三男藤堂高吉が治め続けます。寛永12年(1635年)、藤堂高吉が伊賀国名張藩へ移封になると今治は久松松平氏が伊勢国長島より移封され、以後明治維新まで久松松平家が今治藩を治めました。
- 明治以降の今治城
- 明治時代になると、今治城は廃城令が発せられるより前に城の建物の大部分が破却されました。残った武具櫓など僅かな建物も明治4年(1871年)に火災が発生した際、城内部に保管されていた火薬に引火して爆破炎上して失われています。
しかし、海水を引き込んだ内堀と本丸が建っていた石垣は現存しており、当時の姿を偲べます。昭和55年(1980年)、に5層6階の天守が鉄筋コンクリートで復元されたことを皮切りに、昭和60年(1985年)に東隅櫓が復元されます。平成2年(1990年)に二の丸西隅に山里櫓が木造復元され、平成18年(2006年)には日本100名城に指定されました。
平成19年(2007年)には江戸時代の資料に基づいて鉄御門が石垣や多聞櫓5棟、鉄御門武具櫓ともに木造復元され、城を作った藤堂高虎の象も建立されています。
- 現在の今治城
- 現在の今治城は、復元された天守閣が今治藩の歴史を伝える博物館として利用されています。お堀には、海水魚と淡水魚が共存している不思議な環境が保持されており、見所の一つです。夜間は約100個の証明によるライトアップが日没の30分後から22時まで行われ、観光スポットとなっています。
毎年5月には今治城内吹揚神社にて獅子舞の奉納が行われ、観光客だけでなく地元の方も大勢訪れるお祭りとなっています。
- 今治城まとめ
- 今治城は築城の名手藤堂高虎によって建てられ、現在も海水を引き込んだ内堀や石垣が現存しています。復元天守は鉄筋コンクリートですが鉄御門は木造で復元されています。歴史ファンはもちろんのこと、自然科学に興味がある方は足を運んで見ると楽しい史跡です。
今治城と関連する人物記を読む
- 藤堂高虎多数の主君に仕えた築城の名手
- 藤堂高虎は弘治2年(1556年)、近江国(滋賀県)犬上群藤堂村において、藤堂虎高の次男として誕生しました。幼名を与吉といいます。父の虎高は、近江鯰江城主だった三井乗綱の次男として生まれますが、若い頃は