今治城愛媛県今治市

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今治城DATA
別称 吹上城、吹揚城
築城 1602年
住所 愛媛県今治市通町3-1-3
電話番号 0898-31-9233
開館時間 午前9時~午後5時
休館日 12月29日〜31日のみ
登閣料 大人520円/学生260円

今治城は瀬戸内海に面した海岸に築いた大規模な平城。

今治城への交通アクセス
JR予讃線「今治」駅から瀬戸内バス「今治営業所行き」で約10分「今治城前」下車、徒歩約3分。

HISTORY 日本三大水城の1つ今治城

今治城は、愛媛県今治市に築かれていた海城です。築城の名手藤堂高虎が建築し、香川県の高松城、大分県の中津城と並んで日本三大水(海)城の1つに数えられています。そんな今治城の歴史を紐解いていきましょう。

藤堂高虎によって築かれた海城
今治城は慶長7年(1602年)に藤堂高虎によって築城されました。藤堂高虎は主君を転々と変えた後で豊臣秀吉の弟、豊臣秀長や甥の豊臣秀保に使えて武功を挙げ、300石から大名に出世した人物です。豊臣秀吉の死後に徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いでは、東軍に味方しました。このとき、藤堂高虎は宇和島8万石を与えられていましたが、関ヶ原の戦いの後に報償として今治12万石が与えられたのです。 これまでの今治支配の拠点は唐子山山頂にあった国府城でしたが、藤堂高虎は瀬戸内海の交通の要所である来島海峡の監視や、機能的な都市をつくるために今治の海岸部に城を作ると決めます。普請奉行には渡辺了が任じられ、2年の歳月をかけ慶長9年(1604年)に今治城は完成しました。築城当時の今治城は海水を取り込んで三重の堀を作り、石垣を高く積んで櫓などを建てる構造でした。なお、内堀と高さ13mに及ぶ石垣は現在も当時のままの姿で残っています。当時は船で海から堀に直接はいることができる構造だったと記録に残っています。ほぼ真四角な設計で、二之丸・藩主館、中堀以内に側近武士の屋敷が築かれました。さらに外堀以内に侍屋敷が作られ、城門が9ヶ所、櫓が20ヶ所もある広大さでした。また、天守は当時流行していた入母屋造破風を持つ望楼型天守ではなく、層塔型天守で作られています。なお、後年藤堂高虎が普請した江戸城も層塔型天守であり、この時期に天守の形の主流が大きく変わったことが分かります。 海水を引き込んだことにより、今治城の堀にはヒラメやイシダイ・スズキなどの海水魚が生息するようになりました。その一方で、堀の中には真水が湧き出している場所もあり、そこには淡水魚が生息しています。日本でも類を見ない生態系を誕生させた堀の環境は現在も変わっていません。 慶長14年(1609年)、藤堂高虎は伊勢国津城に移封されます。それに合わせて今治城の天守は解体されて京都府亀山市にあった亀山城に移築されました。移封後も今治2万石は藤堂高虎の養子であり、丹羽長秀の三男藤堂高吉が治め続けます。寛永12年(1635年)、藤堂高吉が伊賀国名張藩へ移封になると今治は久松松平氏が伊勢国長島より移封され、以後明治維新まで久松松平家が今治藩を治めました。
明治以降の今治城
明治時代になると、今治城は廃城令が発せられるより前に城の建物の大部分が破却されました。残った武具櫓など僅かな建物も明治4年(1871年)に火災が発生した際、城内部に保管されていた火薬に引火して爆破炎上して失われています。 しかし、海水を引き込んだ内堀と本丸が建っていた石垣は現存しており、当時の姿を偲べます。昭和55年(1980年)、に5層6階の天守が鉄筋コンクリートで復元されたことを皮切りに、昭和60年(1985年)に東隅櫓が復元されます。平成2年(1990年)に二の丸西隅に山里櫓が木造復元され、平成18年(2006年)には日本100名城に指定されました。 平成19年(2007年)には江戸時代の資料に基づいて鉄御門が石垣や多聞櫓5棟、鉄御門武具櫓ともに木造復元され、城を作った藤堂高虎の象も建立されています。
現在の今治城
現在の今治城は、復元された天守閣が今治藩の歴史を伝える博物館として利用されています。お堀には、海水魚と淡水魚が共存している不思議な環境が保持されており、見所の一つです。夜間は約100個の証明によるライトアップが日没の30分後から22時まで行われ、観光スポットとなっています。 毎年5月には今治城内吹揚神社にて獅子舞の奉納が行われ、観光客だけでなく地元の方も大勢訪れるお祭りとなっています。
今治城まとめ
今治城は築城の名手藤堂高虎によって建てられ、現在も海水を引き込んだ内堀や石垣が現存しています。復元天守は鉄筋コンクリートですが鉄御門は木造で復元されています。歴史ファンはもちろんのこと、自然科学に興味がある方は足を運んで見ると楽しい史跡です。

今治城と関連する人物記を読む

藤堂高虎多数の主君に仕えた築城の名手
藤堂高虎は弘治2年(1556年)、近江国(滋賀県)犬上群藤堂村において、藤堂虎高の次男として誕生しました。幼名を与吉といいます。父の虎高は、近江鯰江城主だった三井乗綱の次男として生まれますが、若い頃は
藤堂高虎

今治城を藩庁とする、今治藩の歴史

今治藩今治タオル生産の基礎を築いた
今治藩は今治城を藩庁に愛媛県今治市一帯を治めていた藩です。今治といえば「今治タオル」が有名ですが、今治は江戸時代より木綿の栽培が盛んでした。今治藩を治めた久松松平氏は藩の産業として木綿栽培を推奨し、そ
今治藩
今治藩DATA
藩庁 今治城
旧地域 伊予国
石高 3万5000石
譜代・外様 譜代
主な藩主 藤堂家、松平家
推定人口 7万5000人(明治元年)

今治城、海水を利用した日本三大水城の城

愛媛県今治市にある今治城は藤堂高虎が手がけた平城で、香川県の高松城や大分県の中津城と並ぶ「日本三大水城」の一つです。瀬戸内の防衛のため、瀬戸内海に面した砂が吹き上げられてできた「吹揚の浜」に作られたことから「吹揚城(ふきあげじょう)」とも呼ばれます。現在の天守は昭和55年(1980年)に再建された模擬天守です。

今治城
今治城の歴史
今治城は藤堂高虎が関ヶ原の戦いの軍功で今治12万石を得て建てた城です。慶長7年(1602年)から築城をはじめ、慶長9年(1604年)頃に普請(土木工事)が完成。建物等がすべて完成したのは慶長13年(1608年)頃だったようです。
築城当時の今治城は本丸・二の丸を中心とした輪郭式の平城で、三重の堀を有していました。堀には海水を引き入れており、船で直接堀に入れるような仕様だったといわれています。また、海辺で地盤が弱かったことから石垣を高く積み、石垣と堀が接するところに「犬走」と呼ばれる細長い平地を設けて強度を高めています。
天守については「そもそもなかった」という説と、「高虎が当時主流だった望楼型天守に代わり、日本で初めて層塔型天守を建てた」という説があります。
建物の完成した翌年、高虎は伊勢国の津藩(三重県津市)に加増移封されました。このため今治城には高虎の養子・藤堂高吉が城代として入りました。天守があったという説によれば、高虎の移封に伴い今治城の天守は伊賀上野城に移築するため解体されました。そして慶長15年(1610年)には徳川家康に献上され、亀山城(京都府亀岡市)に移築されています。
その後高吉も伊勢に転封され、変わって伊勢国長島城(三重県桑名市長島町)から松平(久松)定房が入城。明治維新まで久松松平氏が治めました。明治維新後は、廃城令が施行される前の明治2年(1869年)に廃城となりほとんどの建物は破却されました。現在までその姿をとどめているのは石垣と内堀のみです。その後、昭和55年(1980年)に5層6階の模擬天守が鉄筋コンクリートで建てられ、多聞櫓や武具櫓等が再建されました。以降は櫓や門などが次々と再建されています。
今治城の見どころ①模擬天守
今治城に天守があったかどうかは現在も論争が続いていますが、あったとしたら亀山城に移築されています。このため模擬天守は亀山城天守の外観を参考に、昭和55年(1980年)に5層6階・鉄筋コンクリート造りで建てられました。ただし、亀山城とは異なり、天守はなぜか望楼型です。また、場所も天守があったとされる場所ではなく、本丸の北隅櫓跡に建てられています。
模擬天守のなかは博物館になっており、今治藩主や武士たちの武具、書画等が展示されています。また、最上階の6階は展望台になっており、瀬戸内海や来島海峡大橋、石鎚連峰等の美しい景色が一望できます。
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今治城の見どころ②再建された門と櫓
今治城の天守は模擬天守ですが、史料から忠実に再建された建物もあります。その一つが平成19年(2007年)に再現・復元された、二の丸の表門にあたる鉄御門(くろがねごもん)・武具櫓・多聞櫓です。
鉄御門と櫓は枡形虎口を形成しており、枡形内に入り込んだ敵を門の上部と2つの櫓から狙撃していました。なお、こちらは内部も見学できます。
このほか、二の丸には昭和60年(1985年)に御金櫓、平成2年(1990年)に山里櫓が再建されており、それぞれ現代美術館・武具や古美術品の展示スペースとなっています。
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今治城の見どころ③石垣
今治城の主郭部の石垣は江戸時代から残る歴史あるものです。石垣の積み方は水はけのよい野面積みで、高さは最大13mにも及びます。
石垣には周辺の瀬戸内海の島々から運ばれた花崗岩や大理石が使われており、なかでも花崗岩は全体の9割を占めます。鉄御門の手前には今治城の普請を担当した渡辺勘兵衛の名を冠した「勘兵衛石」と呼ばれる巨石がありますが、こちらも花崗岩です。
また、石垣に使われている大理石には貝殻が付いているものが多くありますが、こちらは石垣用の岩石を島から切り出すとき、運びやすさを考慮して海に近い石を切り出したからだと推測されています。
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今治城の見どころ④海水が引かれた堀
今治城の堀はもともと3重でしたが、現在は一番内側の内堀のみが残されています。内堀の幅は約50m〜70mで、広々としており、まるで海のようです。夜のライトアップの際は城の光が水面に移され、幻想的な光景が現れます。
堀には海水が引かれていることから、堀をのぞき込むと海の生き物たちに出会えます。ボラやタイといった魚はもちろん、サメが入り込んだこともあるのだとか。なお、深さは潮の満ち引きに合わせて変わります。
また、堀底から真水が出ているところがあり、ここでは淡水魚のミナミメダカが泳いでいます。堀のなかで海の生き物と川の生き物が同居する、全国的にも大変珍しい環境の堀は必見です。
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おすすめ撮影スポット
今治城を撮るのであれば、幅広の堀の向こう側から天守や櫓を堀の水面とともに写すのがおすすめ。特に夜のライトアップは幻想的です。また、今治城の隣にある吹揚公園の「藤堂高虎公の像」と城をともに撮影するのも人気です。
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栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。

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