HISTORY
かつては海に浮かんでいた城臼杵城
臼杵城は、大友宗麟によって大分県臼杵市、臼杵湾に浮かぶ丹生島にあった海城です。築城当時は干潮のみ陸地と繋がり、満潮時には周囲の海が天然の要害になるという造りでした。現在は、臼杵公園として整備されています。そんな臼杵城の歴史を紐解いていきましょう。
- 大友宗麟による築城
- 臼杵城は、臼杵七島と呼ばれた臼杵湾内に浮かぶ島の1つ、「丹生島」に16世紀後半に大友宗麟によって築かれた城です。
現在は埋め立てられて陸続きになっていますが、当時丹生島は、臼杵湾内に浮かぶ小島で東と北、南を海で囲まれて西側だけが干潮時に陸地とつながる天然の要害でした。
臼杵城を築城した大友宗麟(義鎮)が、いつごろこの城を築いたか正確な記録は残っていませんが、日本へ布教に来た宣教師のガスパル・ヴィレラがイエズス会に当てた書簡などから、永禄5年(1562年)に建てられたことが通説となっています。
そのころ、大友宗麟は毛利氏との戦に敗れており、大分府内大友館から丹生島に移ったと推測されます。
大友宗麟は、臼杵に本拠を移すことで、臼杵の港と城下町が一体化した経済都市を造りたかったのではないか、という節もあり、実際彼は城を作る際、丹生島そのものを城塞化し、島干潟を干拓して城下町をつくりました。
築城された城は、は3重の天守と31基の櫓が上げられました。中でも総二階造りの重箱櫓と呼ばれる櫓が特徴的だったと伝えられています。
大友宗麟はキリシタン大名としても知られていますが、臼杵城内にも礼拝所が作られ、城下町にはキリシタンの修練場も作られていたそうです。
天正14年(1586年)に島津軍の侵攻による丹生島城の戦いが起ると、臼杵城に立てこもった大友軍はオランダから輸入された「フランキ砲」を動員して島津軍を蹴散らすなど奮戦しましたが、城も城下町も大きく損害を受け、翌天正15年(1587年)失意の内に大友宗麟は死去しました。
大友宗麟の嫡男、大友義統は豊臣家の家臣になって島津氏との戦いに豊臣軍の助力を請い、豊臣秀吉の九州平定を手助けします。
大友義統は父大友宗麟にならって洗礼を受けていましたが、豊臣家の家臣になったため、棄教令に伴って棄教しました。
そして、文禄慶長の役にて敵前逃亡の罪で改易されると、城を追われます。
その後をて石田三成の妹婿である福原直高が入城し、3年間居城した後で慶長2年(1597年)に太田一吉に明け渡されます。
太田一吉は三の丸の増築や大手門の移築など、臼杵城を近代城郭へと改築し、ほぼ現在の形に調えました。
- 江戸時代から現在までの臼杵城
- 慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起り、江戸幕府が成立するとに美濃国郡上八幡より5万石で稲葉貞通が入城します。
そして、明治時代まで稲葉家による統治が行われました。
藩が開かれてから明治時代まで移封が全く行われず、1つの家が1つの藩を治め続けた全国でも珍しい例です。
明治時代になり廃藩置県が実施された後、明治6年(1873年)に城内の建物が一部を残して撤去されました。
その後、明治10年(877年)に西南戦争が勃発すると、野村忍介が指揮する薩摩軍奇兵隊の進攻に備えて旧臼杵藩の家老であった稲葉頼が臼杵隊を組織して臼杵城に立てこもりますが、奇兵隊の襲撃に敗北し、臼杵城は占拠されてしまいます。
しかし、その後明治政府軍が4個大隊と軍艦3隻の援軍を派遣したため、臼杵城は奪い返され、奇兵隊は熊田へと撤退しました。
西南戦争終結後、明治20年(1877年)に城の周囲が埋め立てられ、陸続きになりました。
昭和41年(1966年)臼杵城は大分県の史跡に指定され、平成13年(2001年)に二の丸大手門に当たる大門櫓が木造で復元されました。
現在は、本丸、二の丸は公園地に指定されており、復元された櫓の他に書院の庭園の一部、石垣などが残されており、市民の憩いの場となっています。
平成29年(2017年)には日本100名城の1つに指定されました。
天守閣などは残っていませんが、春には公園に植えられた1,000本の桜が咲く乱れる観光名所となっています。
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