HISTORY
二人の名高い戦国武将が築いた中津城
中津城(中津川城)は、現在の大分県中津市に築かれていた海城です。日本三大海城の1つに数えられており、黒田孝高(如水)と細川忠興という二人の名高い戦国武将によって築かれました。そんな中津城の歴史を紐解いていきましょう。
- 黒田孝高が築城を始める
- 中津城は、天正16年(1588年)に黒田孝高によって築城がはじまりました。黒田孝高は通称を黒田官兵衛ともいい、竹中半兵衛と並んで豊臣秀吉に知略をもって仕えました。
黒田孝高は天正15年(1587年)に豊臣秀吉に豊前国6郡12万3000石を与えられており、当初は豊前平野を見下ろす馬ヶ岳山頂にある、馬ヶ岳城に入っていました。
しかし、この城は戦いのための山城だったので、国を治めるには不向きです。
そこで、領地のほぼ中央にある山国川河口に新たに城を築くことにしたのです。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発し、黒田家は東軍に味方して黒田孝高の息子、長政が築城途中の中津城から西軍の所領を攻めました。
この功績で黒田家は筑前52万石に加増して、福岡県福岡市にあった「名島城」に移封となります。
その結果、中津城は築城が中断されてしまいます。
黒田城が名島城へ移封した後、細川忠興が豊前国と豊後国2郡39万石で入封し、築城を引き継ぎました。
細川忠興は肥後細川家の祖にして、基礎を築いた人物です。また、明智光秀の娘、細川ガラシャの夫としても知られています。
細川忠興は21年の歳月をかけて中津城を現在残る史跡の形に作り上げました。
その間、細川忠興は福岡県北九州市に史跡が残る「小倉城」を築城して、城主として移封しています。
完成した中津城は、本丸を中心として、北に二の丸、南に三ノ丸が位置しており、三角形に近い扇形をしていました。そのため「扇城」という別名があります。
8つの門、22の櫓、6箇所の虎口を持ち、天守があったかどうかは不明です。
一説によると築城中だった天守は、細川忠興の三男、細川忠利の義兄弟小笠原忠真が築いていた明石城に送ったと伝わっていますが、明石城に天守はありません。
この説が正しければ中津城には最初から天守はなく、明石城に送られた天守も別の建物に流用された可能性があります。
堀には海水が引き込まれており、平城でありながら海城という様式です。
石垣は黒田孝高が築いたものが残っており、これは近世城郭の石垣としては九州最古のものです。本丸上段北面石垣には、黒田家が築いた石垣に細田家が新たに石垣を継いだ跡を見ることができます。
- 江戸時代の中津城
- 黒田家と細川家によって築かれた中津城は、江戸時代を通して中津藩藩主の居城となります。
細川家は寛永9年(1632年)熊本藩へ移封となり、それに後、小笠原氏、奥田氏が城主を務めました。
中津城は天災などで被害を受けたという記録は残っていない珍しい城です。
安政3年に海防強化のために山国川河口へ砲台を設置したり、文久3年に松の御殿を新築したりしていますが、砲台や建物は明治になってからも使われ続けました。
- 明治以降の中津城
- 明治を迎えて廃藩置県が実施された後、中津城は中津藩・藩士である福沢諭吉の進言によって松の御殿以外の建物が破棄されます。
そして、明治10年(1877年)に起こった西南戦争で増田宋太郎率いる中津隊の襲撃により、松の御殿も消失してしまいました。
その後、長い間中津城跡はそのままでしたが、昭和39年(1964年)旧藩主奥平家の奥平昌信
さんが寄付を募り、自身の私財と併せて模擬天守閣を築城します。
復元された模擬中津城天守は長い間中津市のシンボルであり、観光名所でしたが平成19年(2007年)に天守閣を所有していた「中津勧業」が、土地や建物を中津市か民間企業に売却する意向を示します。
そして、模擬天守閣は埼玉県の企業「千雅」に売却され、管理・運営が一般社団法人中津城に委託されました。
そのため、中津城は日本の城の中で唯一株式会社が所有している形です。
平成16年(2014年)築城主の黒田孝高を主人公にした大河ドラマ「軍師官兵衛」が放送されるのに先立ち、場内が全面整備されました。
平成18年(2016年)続日本の100名城に選出され、現代にいたります。