HISTORY
戦国時代に大きな戦の舞台となった杵築城
杵築城は、大分県杵築市杵築にかつて存在した平城です。戦国時代、城主であった木村氏と九州統一を目指す島津氏の間で壮絶な戦いがあったことでも知られています。
そんな杵築城の歴史を紐解いていきましょう。
- 杵築城の築城から江戸時代まで
- 杵築城は、鎌倉時代から続く由緒ある御家人大友氏の庶流である木村氏によって、八坂川の河口にある台山の上に築かれました。
台山は、北に高山川、東に守江湾がある天然の要害で、おいそれとは攻められません。
木村氏はそこに連郭式の平山城を築き、台山を空堀で4つに区切りました。
築城当時は木付城と呼ばれていました。
木村氏16代目当主木付鎮直の時代、天正14年(1586年)から天正15年(1587年)にかけて九州藤一を目指す島津氏と大友氏の間で豊薩合戦が起ります。
木付鎮直は大友氏に味方し、島津氏の家臣である新納忠元の軍を2か月間、杵築城に籠城して耐え抜きました。
この戦をきっかけに、杵築城は「勝山城」という別名が付いたと伝わっています。
なお、この豊薩合戦が豊臣秀吉の九州平定のきっかけを作りました。
そして、木付鎮直は主君であり、大友宗麟の嫡男である大友義統が文禄の役での失態を咎められて改易すると、木付鎮直は城内を掃き清めて妻と共に自害をしたと伝わっています。
木村氏亡き後、杵築城は豊臣家の蔵入地(直轄地)となります。前田玄以、宮部継潤が奉行を務めた後で、慶長元年(1596年)に杉原長房の所領となりました。
同年慶長豊後地震が発生し、翌年は暴風雨の被害にあった結果、天守などの建物に被害が出たため、杉原長房台山北麓に居館を移したと伝わっています。
- 江戸時代の杵築城
- 慶長5年(1600年)になると杵築は細川忠興の所領となり、慶長6年(1601年)には松井康之が城代となります。
そして、慶長13年(1608年)6月に天守が落雷によって焼失して再建されています。記録によると、この再建された天守は3重の層塔型であったということです。
慶長20年(1615年)に一国一城令が発布されると台山の主郭部が破却されて主要な機能が後の藩主御殿となる台山北麓の居館に移されていきます。
この移転は、17世紀半ばで完成し、17世紀末になると、台山の城郭は完全に廃止されました。
元禄7年(1694年)に儒学者の貝原益軒が杵築を訪れたときの記録が『豊国紀行』という本の中に「木付に城なし、町あり」という文章で残っています。
また、城下町については「木付の町は山と谷とに有りて坂多し」と記されています。
なお、17世紀までは杵築城は木付城とよばれていましたが、正徳2年(1712年)、幕府の朱印状に「木付」と書くべきところが「杵築」と記されていたため、間違えを指摘することができず、幕府に届けでを出した上で藩と城の名前を「杵築」と改めました。
- 明治以降の杵築城
- 明治を迎えると、杵築城の建物は取り壊されてしまいました。
昭和45年に台山の城址一帯が整備されて公園となり、鉄筋コンクリート造り、
望楼型3層3階の模擬天守が再建されます。
内部は資料館と展望台になっており、杵築市の観光名所の1つです。
平成29年(2019年)には国の史跡指定を目指して行われた史跡調査では土塁や堀切の遺構が確認されました。
また、江戸時代を通じて杵築藩の藩政の中心となった御殿跡は杵築神社、旧杵築中学校、旧杵築市立図書館などが建てられていて、堀、石垣、庭園の遺構が残っています。
杵築城と関連する事件を読む
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